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Repeatedly Ideas

「サーちゃん、順番ならそれでいいのよ。」

もうすぐ、一年になる。
去年の桜は咲き年で、目で見える範囲の視界に、はち切れんばかりに花びらが広がっていた。
私たちの馴染みの場所で、子どもくらいの背丈になって立派な桜の木々を眺めていた。
背を低くしたのは、車椅子に腰掛けながら見上げる祖母に合わせたからだ。
だいぶ終わりの頃だったから、風に乗せられて、花びらはヒラヒラと舞っていて、それらが近くに来たり、目で跡を追えないくらい遠くに飛んでいったりしていた。
散々見るのを楽しんだ私たちは、桜をバックに自撮りをして記念写真とした。
桜を写すのに必死だったからか、顔がらっきょうのように少し長く不格好になったが、祖母の白髪に桜の色が映って綺麗に撮れたので、とても満足だった。
ちょうど祖母の誕生日の3日後の土曜日で、よく晴れて暖かく、私たちが大好きな気候の日の出来事だった。

そして今、また桜の季節が来た。
真っ暗にしないと眠れない質なので、明かりを消して、横たわり、目を瞑る。
今日見た桜の様子は全く浮かんでは来ずに、近頃は一年前の桜が毎晩思い出される。
過去という映像が、私に悲しみを運んでは消えて、運んでは消えて、繰り返される内にどうしようもなくなって、気付けば死について考えている。


私にとって死は得体のしれないものであり、そして周りに置いて死が近づいた時に、最も強く恐ろしくなるものである。
しかし、同時に、死に関して自分なりに確実にわかっていることもあって、死を知る前と後では世界は全く別物になるという事だ。
誰かの死はその出来事から月日が経とうが経たまいが、余波となり永遠に私の近くに存在する。
これをある人は、「近くで見守ってくれている」と捉えるだろうし、ある人は「あるべきものが足りない気持ち」と捉えるだろう。
私の場合は常々死について考えている訳ではないが、ふとした時にその波にいざなわれることで「悲しみが迎えに来た」と捉えている。
そして、私にとってこの悲しみは決して敬遠すべきものではなく、常に心に宿しておきたい安堵の念とも言うべき感情である。

もう二度と体験したくない死だが、この悲しみは私と祖母を確かに今も繋いでいるもので、私にとっては大切な相棒とも言うべき存在かもしれない。

まだまだ会いたい気持ちが溢れ出て、どうしようもなくなる時、私は必ず祖母の声が聴こえる。それが、文章冒頭の言葉である。


父方の祖母を亡くしたときが、私にとって初めての身近な死だった。東京に戻ってまず一番に会いに行ったのが母方の祖母だった。
おんおんとなく私に祖母は「それは辛かっただろうに。でもねサーちゃん。これが順番ならいいのよ。それでいいのよ。子や孫に先立たれる事ほど、そんな悲しいことはないのよ。」と語ってくれた。
そう言い残した祖母はその2ヶ月後に亡くなった。

納得できるようで、したくない。
十分に生きたと思える生が全うされるならば、それは受け入れられるべきなのだろうか。
でも、その死をまだ受け入れられないでいる、と言うより考えないように、忘れたふりをしては、必ず振り出しに戻って思い出してしまう私には、この問に答えることはできない。
そもそも生があるから死があると言うよりは、死があるので生がある。なんとなくではあるがそう考えているので、その場合、生が全うされる≒死は受け入れられるべき自然の摂理であるとは思う。

こうやってグチャグチャと色んなことを考えさせてくれている死は、悪ではないのだろうか。
まだ、答えはない。
明日にも、多分ないな。