人をどこまでも優しく、けどどこまでも逃さず理性的に気付かせ続けるとどうなると思う?

俺が基本、経営するにしても人を雇うことに慎重で一線を引いている理由

それはほとんどの人がその形式にきちんとは耐えられないからだ。社会の平均像のように誤魔化し誤魔化しでなければ耐えられず、かといって誤魔化すと仕事のクオリティが壊滅する。そんな状態で経営を進めてもロクなものはできず、年商が何百億になるか知らんがありふれた生活の場ができるだけだ。それならばあえて俺がやる意味が見えない。

サービスの受け手、働き手、関係者がみんな経済面、健康面、生きる意味や手ごたえでどれも充実することが最終目標であり、それのいずれが欠けても、経済面さえ良ければいいという前時代的な欠陥集団である。

人は精神的にどこにも逃げ場がないとき、そしてそれが完全に自分のせい以外にできないとき、それを受け止めきれないとき、最後は身体が燃えるように発熱して倒れる。

経営者とか上司とか先輩が変に厳しかったり罵倒したりする輩ならまだ救いがある。そいつのせいにして自分の責任までごまかせるからだ。多くの社会人はそれが救いになっているのに気づいていない。上司や嫌な奴の泥によってお前の泥をごまかせているのだ。

普段はあらゆる部分で徹底的に優しいということが、かえって自分のせいが起こったときを際立たせる。何よりもそれが追い込むことになる。

過去2人に同じことが起こった。

どちらも「今の時点で世界で一番信用できる人間を一人上げてください」と聞かれたら俺だと即答するくらいの10年以上の信頼関係がある。

2人ともわけあって俺のところで働きたいと頼ってきた。

本当にやれそう?いくつか仕事があるけど、これはここが大変でこれはここが大変だよ、と、慎重に慎重に10以上の仕事から選ばせた。

仕事の時間帯や姿勢ややり方や在宅かどうかにいたるまであらゆることをできるだけ自由に配慮した。

報酬は相場の2倍渡した。

お金に困っていれば週払いや前借りにも破綻しないように配慮しつつ応じた。

つぶしの効かない雑用を一切押し付けず、本人が最速で自立できるスキルが身につく仕事だけをさせ、丁寧に丁寧にレクチャーした。

世界でそれ以上簡単な方法はない、というくらい精神的にも身体的にも負担が少なくなる俺が長年試してみつけた方法ですべて教えた。

体調が悪かったり気分が悪いくらいの日でも休みは気分よくOKした。ただし、仕事の遅れは自分で取り戻してね。という自由と責任のもと。

変な上下関係で委縮しないよう、あくまでフラットな仕事仲間としてふるまった。命令などは一切しなく、「これをするためにはこれが必要だと思うけどどう思う?他に何かいい方法ありそうかな?」という感じ。すべてにお互いの意思を丁寧に確認しながらすすめた。

仕事さえ進めば、雑談もいくらでももちろんOK

このくらいかな?まだあったと思うけど、とりあえず俺の考える「こんな働き場があればいいよね」をすべて詰め込んでやってみた。

その結果は・・


一人は1か月、一人は3か月で発熱してやめた。

発熱する前には、2人とも約束を破りはじめ、さまざまな方法で仕事から逃げようとした。

こちらは最初から、別にしなくてもいいししてもいいよと言っている。無理な約束をさせないために、無駄に人を縛らないためにどこまでも注意して、「本当に大丈夫?できそう?無理なら調整するから言ってね。それから気分とか体調も大事だから優先してね。後から調整すればいいから」というように進めているのに、そこまで自分から約束したものからもなぜか逃げようとした。

だけども、俺があまりにも自由と快適と人権尊重を徹底しているので、俺のことをなにも責めることはできない。押しかけて仕事も作ってもらい、その仕事も一番向いていて役に立つものをちゃんと分けてもらい、丁寧に教えてもらい、遅刻も休みもOK。仕事量さえ自由にできる。

それどころか本人たちもなぜ自分がこんなにもいい待遇なのに自らそれを壊すように約束を破りたくなるのか分かっていないようだった。

おれの目から見たほうが起きていることの把握はたやすかった。

ようは人間はそういうもので動いてないってことだ。彼ら彼女らの真の動機とは、本人たちも気づいてないが、まず誰かに(手軽に)頼られたり感謝されたいということ、それからめちゃくちゃに甘えてわがままをして振り回してその反応からエネルギーを取りたいということなのだ。

普段の社会生活では義務や圧力によってそれが封印されているように見えるからかえって仕事が続くことがあるかもしれないという皮肉

ところが、俺はそういうものにすぐ気づく。

ありとあらゆる言葉と雰囲気でこちらを揺さぶろうとしてくる。「体調、気分、一生懸命やってるけどぼーっとする、分からないフリ、予定があるフリ、堅苦しさチェックetc..」

そういうものから俺は、問題の芯からは決してぶらさずに優しく対応しつづける。

「体調?気分?悪ければ休んだほうがいいよ、大事だもの。後から自由に調整してね」

「仕事量ちょっと多そう?なら減らそうよ俺がやるし。お金がもっと必要?だったら増やさないと。合わせられるから自分で決めてくれればいいよ」

「ぼーっとする?じゃあ今日は仕事終わる?明日元気な午前中やろうよ」

「わからない?ごめんねどこの部分だろう?確か説明するの4回目だと思うけど、そろそろね、わからない部分そのものをもうちょっと細かく把握して伝えてもらえると助かるな」

「終れなさそう?いつまでに終われそう?それまでその後の作業を調整して待つよ」

「予定?いいよいってきな、後でいいから今週の他の時間に自分で仕事の日を決めておいて」

「無駄にきっちりしてると疲れるからさ、姿勢も会話も自由でいいよ。仕事の中身さえちゃんとやれば後は自由でいいよね」


俺が「間違う」のを無意識に待っているのを感じる。

怒ったり縛ったり命令したりいばったり制限したりせこかったり堅苦しかったり恩を着せたり するのを。 そのやりとりはたぶん俺じゃなくても良くてふだんから多かれ少なかれやっているのだろう。無意識が何かを求めていて、いつのまにかそういうコミュニケーションに陥っていくのだ。

そんな振り回しは俺には一切通用しない。穏やかにとどまることで本人たちが自分自身に気付く1択しか与えない。そこから俺は俺の気づきと反省をするまでだ。

そんなことが1か月か3か月続くと、彼らのほうが耐えられなくなる。仕事とお金は実は一番の目的じゃないからだ。昭和風にいうならば、「愛」が欲しかっただけなのだ。彼らなりの方法で俺からそれを引き出したかった。

俺のほうも最初からそれは目的じゃない。本人たちが最も望んでいることや、最も気づいたほうがいいことをサポートできればそれでいい。

だから、彼らの望む潜在的な形式=依存的な関係性 には付き合わないが、俺なりのメッセージを言葉ではなく背中で最大限伝えたつもりだ。

お前のことは人として好きだ。幸せを心から願っている。その幸せが俺と一緒に味わえるならなお最高だ。できることがあれば最大限助ける。
ただ自分から約束したなら守れ。自分のために相手の思いを裏切るな。手軽で価値に見合わない「必要とされたい」を、子供のような態度のやりくりで満たそうと思うな。満たしたい感情があるなら自分で気づいて必要なものを身につけ、まっすぐそれを表現しろよ。それでもそれにこたえられるかどうかは俺や他人の自由だ。そもそも、それらは仕事である必要はなく、もしそうなら生活のために俺を利用しているまであることに気づいてくれ。

そしてついに彼らは自分が求めているものが手に入らないことについて、自分以外に責める対象がなくなり、身体が発熱して仕事にこ(れ)なくなった。人間は他にどうしようもないときには身体が自動的にそうさせる。

勘違いしてほしくないのは、俺は2人を大好きだということだ。

そのほかに10年の間にたくさんの成長と気づきと癒しなどをもらった。

だから、たまたま今はそういう巡りあわせになっているだけ、という認識だ。

なので現在も別に何も引きずらず仲も悪くなっていない。なんかそんなこともあったね、という感じだ。俺もこの程度で恩を売るつもりはない。


俺がこの件から学んだのは、雇う雇われるという形式の限界だ。

元々雇う、という形式には様々な矛盾を感じてはいたが、大好きで信頼のある2人に同じことが起こったことでそれが明確になった。

外注などで逆に関係性が遠くて、形式と義務感と他人行儀でやったほうが仕事上上手くいったところを考えると複雑な気持ちになる。

人はまだまだ自由や本心や人間の本質をうまく生かせないということなのだろう。普段からまっすぐに生きていないということでもある。


仕事のクオリティと全員の人間らしい生活を保ったまま組織的に仕事をするには、偶然レベルでの出会いが無いと難しいだろうなと思う。





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