ジャーの奇妙な高校時代【ジャーヒストリーvol.1】
私は高校時代、卓球部でありながら、高校野球が大好きだった。
高校3年間、とにかく野球、野球。お正月の書初めの宿題も、大阪にある古豪の校名「上宮太子」と書いたり、地元の強豪「上田西」のユニフォームの字体を真似て書いたりしたが、誰も気にとめることなく、そのまま教室に貼りだされていた。
毎年7月になると、教室の後ろの黒板に「全国高校野球選手権長野大会」の勝ち上がりトーナメント表を書き、完全に黒板を占領していたが、これも担任もクラスメイトも黙認で、消す人はいなかった。
所属していた卓球部の遠征で、神奈川の強豪・横浜隼人に行っても、石川の遊学館と卓球の練習試合をしても、やっぱり頭の中には「野球」があった。
2年生の夏休み、練習を1日だけ休んで、親以外には内緒で、夜行列車で甲子園に行った。長野代表「塚原青雲」(現松本国際)を応援するためだ。翌日、日に焼けて帰ってきた私をみて、顧問の先生に瞬殺でバレて、めちゃくちゃ叱られた。話も聞かずによく気付いたものだと、私は驚いた。
そんな私は小さな頃から書くことが好きだったので、生徒会の新聞委員長になり、校内新聞のあとがきにも、高校野球の話しを書いた。でも、これは真面目な手記だったので、「これ、あなたが書いたの?」と逆に国語の先生に文章を褒められた記憶がある。
ちなみに、大人になってからは、「高校時代はマネージャーでしたか?」とよく聞かれるが、そうではなかった。
卓球部では、(人数の都合により)新チームからキャプテンを務め、県で団体戦ベスト4になったりと、それなりに真面目に練習をやっていたチームであったし、当時は卓球部に入るためにその高校を選んだので、マネージャーをやるという選択肢はなかった。
ただ、高校3年の6月の高校総体予選で敗退し、卓球部を引退すると、私はすぐに野球部の監督のもとへ行った。「これから高校野球の世界で仕事がしたいから何か手伝いたい」と直談判したが案の定、断られた。
それでも、家でスコアの書き方を覚え、週末に夏の大会の対戦相手校の練習試合に繰り出し、一人偵察部隊として、試合の様子を撮影し、野球部にスコアとデータを納品したりした。
3年生部員たちにとって(私にとっても)最後の夏の大会。初戦は平日だったが、ちょうど文化祭の後片付けの日だったので、担任に「町中に貼った文化祭のポスターをはがしてきます」といって、学校を抜け出し、新幹線に乗って隣の市にある野球場に向かった。
(ここまで振り返っても、本当に自分勝手すぎる生徒であったが、成人してから担任や部活動顧問には反省の意を伝えた)
試合は初戦で負けた。10点近く取られながらも、シーソーゲームだったような記憶がある。球場を出ると、空がオレンジ色だった。いつも、学校でみてきた野球部員たちが泣いていた。「高校野球の終わり」をはじめて目の当たりにした。
受験生となった私は、スポーツの報道記者になろうとすでに心に決めていた。それは大学を卒業してからではなく、東京に上京したらすぐにでもなろうと思っていた。
高校の卒業式が終わった1週間後。杉並区の学生寮に入った私は、さっそく地図を片手に自転車に乗って、取材をさせてもらえるチームを探し始めた。生まれて初めての高校野球の取材は、突然の飛び込み交渉だったが、これが私の記者としての原点となる。
そして大学4年間、北は北海道から南は沖縄まで、毎年10チーム近く長期取材し、チームと選手の心の成長を追ったノンフィクション書籍「高校野球は空の色」シリーズを3冊自費出版した。「好き」だけの思いで駆け抜けた時代だった。