麻雀界16号バビィの「プロ論」より  プロとして生きるための〝鍵”

『セルフ・プロデュースが可能な時代』
昔、こんな話を聞いたことがあります。
故・阿佐田哲也氏が小島武夫氏と出会った頃のこと。
麻雀タレントとして小島氏を売り出そうと考えた阿佐田氏は、まず彼を銀座の一流テーラーに連れていった。
もちろん小島氏用のスーツを仕立てるためにです。
次に阿佐田氏は小島氏を一流のレストランで食事させ、さらに自分の人脈の文化人や芸能人と麻雀を打たせた。阿佐田氏は「小島武夫」というタレントを創造するにあたって、何よりも先に「一流意識」を身につけさせたというお話。真偽のほどは定かではありません。
しかし阿佐田哲也氏なら、そんな発想をしてもおかしくないという気もします。前号の最後で、僕はこう記しました。

《これからの麻雀プロが食っていくためには、まず新たなマーケットを開拓しなければならない。平たく言えば「食い扶持」ですね。その「鍵」というか突破口のひとつがここにある、と僕は考えます。結論から申し上げると、自分の麻雀および自分のキャラクターの商品化です。麻雀ファンの方に「自分」という商品を買ってもらうという作戦なのです。》

前出の阿佐田氏と小島氏のエピソードは、これにつながるものといっても差し支えないでしょう。
現在のプロ麻雀界には阿佐田哲也氏に匹敵する名プロデューサーはいません。となると、自分で自分を商品化していくしかない。いゆわる「セルフ・プロデュース」というやつですね。
昔と違って今は恵まれた時代だと思います。
セルフ・プロデュースがそんなに難しい状況ではなくなったからです。たとえばブログ、SNS、オンライン麻雀、ニコ生配信etc…。
自分で自分を売り出せる「場」が目の前にたくさん存在しているのです。僕の若い頃は「場」が活字媒体しかなかったので、セルフ・プロデュースは大変でした。
早い話が飛び込み営業。いくつもの出版社、新聞社に原稿を持ち込みました。それでは麻雀プロというよりライターではないか。まったくその通りです。ライターを志していたわけではないのですが、「場」が活字媒体しかない以上、文章でセルフ・プロデュースする他方法はなかったのです。

しかも当時の商業原稿ですから、様々な条件、制約をつけられます。伸び伸びと好き勝手なことを書ける状況ではなかった。好き勝手に書けなければ思い通りのセルフ・プロデュースもできない。
そんなジレンマに悩んだことも一度や二度ではありませんでした。
ところが今は、自由に伸び伸びと好き勝手に文章を書けたり、麻雀を語ったり、打ち筋を披露させたりすることができる。こんな素晴らしい環境の中で、自分を商品化させていくアイデアを練らないなんて、何てもったいないことでしょう。

『プロデュースの発想』
麻雀プロがセルフ・プロデュースするにあたって、大きい商品価値となるのが「タイトル」です。
いくら面白い文章を書いても、いくら巧みな話術を使えても、いくら素晴らしい打ち筋を披露しても、タイトルの持つ価値には敵いません。
ただ、ここで問題となるのは、タイトルを獲りました、ただそれだけでは何の効力も発揮しないということです。タイトルは言わば名刺に記載されている「肩書き」や「格」みたいなもの。名刺は持っているだけでは、ただの紙きれに過ぎません。セルフ・プロデュースのために、名刺を最大限に役立てる、この発想こそが大事なのであります。
具体例を挙げましょう。第六期最高位の狩野洋一さん。
彼の獲得タイトルはこの「最高位」ひとつだけです。
しかし狩野さんは「最高位」というタイトルを最大限に活用しました。自らアイデアを練り出版社に企画を持ち込み、「肩書き」や「格」の威光で入門書、戦術書を多数発刊。さらにその威光で麻雀教室を開講し、その数を増やし、ついには麻雀荘まで経営。さらに、推理小説まで手掛けるようになり、現在は推理作家協会の会員でもいらっしゃいます。ちなみに狩野さんの著作の中には、こんな題名まで登場。
「麻雀プロの世界・三億円を稼いだ麻雀人生」(狩野洋一著・碧天舎刊)
たったひとつのタイトルで三億円も稼いでしまったのですから、見事なセルフ・プロデュースとしか言いようがありませんよね。狩野さんの時代は、僕と同様「場」が活字媒体しかない状況でした。
にもかかわらず、これだけのセルフ・プロデュースをされたのですから、もし今の時代に狩野さんが現われていたら、とてつもない金額とポジションを得ていたことは間違いないでしょう。

『〝知られていない”=〝存在していない”ということ』
アンケートがすぐその場で、手軽に取れるようになったネット社会。
先日、あるタイトル戦の優勝予想アンケートを拝見しました。その結果にちょっとびっくり。
何と、僕から見ても明らかに実力が上と思える選手たちが低い数字で下位にランクされていたからです。逆に上位を占めたのはキャリアが浅い選手たちでした。
なぜ、こんなことが起きたのか。
それはキャリアの浅い選手たちのほうが露出していたからに他なりません。彼らはユーザー(麻雀ファン)の認知度が高かったのです。それでは優勝予想ではなくて人気投票ではないか。
そんな声も聞こえてきそうですが、ここがポイント。 たとえ実力が上だとしても、ファンに認知されていなければ、その選手は「存在していない」に等しいのです。もちろん、プロ麻雀界内部では、実力ある選手は高評価と共にかなりの存在感を示されています。でも、それがいったい何になるのでしょう。
プロ麻雀界内部の存在感=お金、に換算されるなら話は別ですが、現状はほとんどそんなことはあり得ない。
「プロ麻雀界内部の存在感」とイコールで結びつくのは「優越感」だけです。もし、それが至福だったり目的だったとしたら、その選手はプロでも何でもありません。
単なる「麻雀の強いアマチュア雀士」に過ぎなくなる。
むしろ、実力が多少低くても、メディアに露出し、人気を獲得して、ファンの増加に貢献している選手のほうがよっぽど「プロ」と言えるでしょう。またメディア側も、そういった選手を重宝します。
なぜなら読者や視聴者、ユーザーの獲得に欠かせない「麻雀タレント」だからですね。そうなのです。
阿佐田哲也氏が小島武夫氏をプロデュースした時代。あの頃に回帰する時が来たのではないでしょうか。麻雀プロ=麻雀タレントである、そのことを再認識して…。
前号でも書きましたが、囲碁や将棋のような世界を目指すのは時期尚早ですし、はっきり言っておこがましい。
阿佐田氏がいなくても、容易にセルフ・プロデュースができる時代になったからこそ、麻雀プロの皆さんには魅力溢れる麻雀タレントを志してほしいのです。

『麻雀プロの商品価値とは?』
では具体的に「魅力溢れる麻雀タレント」とは何なのか。端的に言えば、ファンがお金を払ってくれるタレントのことです。
たとえば書籍、たとえば新聞・雑誌、たとえばテレビ、たとえば麻雀荘、たとえばゲーム、たとえばイベントetc…。書く、出る、喋る、打つというだけでファンがお金を払ってくれるなら、その選手は立派な麻雀プロであり魅力溢れる麻雀タレントと呼べるでしょう。
ここで重要となるのが、麻雀プロ(タレント)の商品価値が唯一であること。特有でも、独特でも、希少価値でもいい。とにかく「カブリ」は駄目なのです。
わかりやすい例を挙げるなら、デジタル麻雀。デジタル雀士が数多く登場したら、その商品価値は無いに等しい。アナログ、オカルト雀士が蠢く中に、たったひとりデジタル雀士がいるからこそ、商品価値は高まり、需要は増えるのです。
「場」が活字媒体しかなかった時代、麻雀プロの皆さんは打法と個人のキャラクターで他者との差別化を図りました。
故・安藤満プロの「亜空間殺法+無頼」しかり、金子正輝プロの「牌流定石+情熱麻雀(現在は顔芸)」しかり、土田浩翔プロの「トイツ打法+トーク」しかりです。
カブリはなかったし、誰も人真似しようとは思わなかったのですね。
さて、今の「場」は多岐に渡っています。昔と違い、キャラクターの設定、他者との差別化、商品価値の確立はそんなに難しいことではありません。
ただし、そのために必要な条件があります。それは全ての麻雀プロをライバル、もっと刺激的な言葉を使うと「敵」と見なす気持ちなのです。
(以下、次号に続く)

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