『消えてしまった』 津野米咲さんの一周忌に寄せて


 ガールズバンド「赤い公園」の津野米咲さんの夭折からちょうど一年が経ちました。そこで今更ではありますが、彼女が作詞を手掛けた楽曲、そして僕がこの世で一番に好きな楽曲でもある『消えない』の僕なりの解釈をここに記し、遅すぎる弔文とさせていただこうと思います。 


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何度もはげましてくれた
お気に入りの曲が
初めてうるさく感じた
いきどまりの夜の中  

 アップテンポのギターから始まるこの曲は、歌詞の始まりとともに深く静かな厭世観をまといます。無趣味の僕は何度もはげましてくれている物を持ち合わせていませんが、行き止まりの夜の空気の薄さは知っています。音楽に生き音楽に頼る彼女ならば、そのうるささはより一層絶望的なものだったのではないか。逡巡を次の歌詞が切り裂きます、「わかってる」。最初のたった一節で、僕たちはこの曲に深く沈み込みます。

 わかってる わかってる

 何がわかっているのだろう。それは明確にはわかりません。でもどこか、部屋を片付けなさいと言われたときの子供に似た、言い訳じみた辟易のような何かを感じます。

 さよならなんて簡単な
言葉に詰まるのはなぜ
終わらせたっていいけど
終わらせるなら今だけど

 彼女が作詞を手掛けた曲には希死念慮への苦悩を綴ったものが散見されます。その背景がなかったとしても、今までの文脈からこの「さよなら」を死と捉えることはそう不自然ではないでしょう。合理的に考えればこんなにも苦しい行き止まりの夜は、今すぐにでも終わらせてしまうべきなのだ。

 話は逸れますが、津野米咲さんの死因は明らかには公表されていないようです。まことしやかに言われていることには自殺だったらしいのですが。しかし一年も前の、会ったことすらない人のことです。僕が彼女の死因について絶対的な確信を持てる日は、原理的に訪れません。
 それでも好きな曲を僕なりに読むことはできます。だからこそ今この文を書いています。

沈むタイタン号
燃える人形町
声を荒げる水金地火木

 耐えかねなかった痒みをかきむしるような荒々しさで曲はサビへと盛り上がっていきます。タイタニック号は海へと沈み、1513人が死亡した。吉原は炎上し、一万戸が灰となった。暗室での「私」の死の予感は、水の中、火の中へと時空をただようように広がっていきます。その熱さと冷たさとは見事に五字の中へと収斂され、ついにははるか太陽系にまで至るのです。声を荒げる惑星たち。これは僕には、宇宙のどこにまでいっても繰り返されている、些細な、あるいは知覚されぬような死なのだと思えます。この世界はいつでもどこでも死で満ちている。

なのに消えない
消えてくれない
心尽きても何かが消えない

 なのに、「消えない」。これだけ死の溢れた世界で、これだけ絶望しきった以上は、「終わらせ」て然るべきなのに、「何かが消えない」。
 その消えない「何か」とはきっと生そのものへの原初的な執着でしょう。合理性を超えてもなお「私」は生きることを求めてしまうのでした。

案外笑顔で過ごせてる
ただ新しい日々が
ちょっと怖いような気がした
自分じゃないみたいで

 『消えない』をボーカル交代に際した新編成について歌った曲だと解釈する向きのことは知っています。たとえばこの「新しい日々」という部分や、他にもバンドの解散の示唆と読み取り得る「さよなら」について注目しての解釈なのでしょう。
 無論その聴き方に異論はありません。しかし僕はこの曲を聴いていると、どうしてもそれ以外の何かが感じられて仕方がないのです。たしかに「自分じゃないみたい」という状況は、当時の赤い公園にとっては新体制のことを指していたのかもしれません。それでもこの曲は、さらにその先、つまり自分の輪郭がぼやけていく不安感の帰結の部分にも目を向けているのではないでしょうか。そう考えると『消えない』CDのジャケットのカメレオンは、新たな環境に溶け込むことのできない「私」の居心地の悪さを表現しているようにも見えます(*1)。

わかってる わかってるのに

 またしても「わかってる」と「私」は言う。何がわかっているのだろう。やはり僕にはわかりません。ただ想像を試みてみるならば、たとえば「自分じゃないみたい」な自分は、それでもやはり自分だということ。この「いきどまりの夜」は実はいきどまりではないのだということ。今自分が考えていることは、感情的になったあまりの早計にすぎないということ。…なのかもしれませんし、あるいは不合理な生など今すぐにでも放棄してしまうべきだと「わかってるのに」、それでも「消えない」何かに引き止められてしまっているということ、なのかもしれません。その両方とも、だというのが個人的には最もしっくりくるのですが。生きる理由も、かと言ってわざわざ死ぬ理由も、もう何もかもわからなくて、むせ返るような不安と不快感だけがただ募っていく感じが、この「のに」からひしひしと伝わってくるのは僕だけでしょうか。

さよならなんて簡単な
言葉に詰まるのはなぜ
終わらせたっていいけど
終わらせるなら今だけど

 そしてまた葛藤を繰り返す。この辟易と諦念の息苦しさは痛いほどわかります。

ここは桃源郷
またはティルナノーグ
永遠にたゆたう天上天下
だけど行けない
行っちゃいけない
引き止めるような何かが消えない

 桃源郷もティルナノーグも、ここでは(本来の使われ方とは異なり)死後の世界をたとえとして使われた表現でしょう。というのも、その後に続く「天上天下」は彼岸と此岸とを言い表しているからです。つまりこの部分における「ここ」すなわち楽園とは、「私」の眼前に広がる死の風景を意味しているのだと僕は考えます。生と死との境界があいまいになり、いっそ死んでしまおうかと無限に逡巡し続ける脳内のぼやけ。それでも「行っちゃいけない」と、「引き止めるような何かが消えない」。

沈むタイタン号
燃える人形町
声を荒げる水金地火木

 時空のどこにおいても死とはありふれたものにすぎないのに。
 死の罪とは欺瞞に決まっているのに。

なのに消えない
消えそうで消えない

 なのに「消えない」。「私」という「生」そのものは、風前の灯は、「消えそうで消えない」。

こんな所で消えない
消さない

 そして最後の最後で主語が変わります。「消えそうで消えない」「何か」に引き止められた「私」はついに決意するのです。

 私はこんな所で「消えない」。私はこの灯を、「消さない」。

 生死の境目を浮ついていた「私」は、そのさまよいで初めて触れられたありありとした生の感覚を足がかりに、再び生きていこうと確たる意志を固めるのでした。白熱していたメロディは、また元の日常が始まるかのようにイントロと同じ調子に戻り、静かに消えていきます。なんて美しい締めくくられかたなんだ。

 僕にとって生きるのは大変で辛いことです。行き止まりの夜ばかりです。だから、行き止まりの夜をこんなにも格好良く、女々しさを微塵も感じさせない爽やかさで歌い上げ、そしてその行き止まりで出会った自分自身の生と対話し、行き止まりを乗り越える。この3分17秒にたまらない鮮烈さを覚えます。僕はこの曲が大好きです。


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 なのに、彼女は、消えてしまった。

 この聴き方は僕の勝手なものです。しかしたとえ読みが恣意的だったとしても、これだけの情感を抱くことができる曲には、そのぶんの豊かさがあると言えるでしょう。それほどにすばらしい曲を手掛けた彼女が、消えてしまったのです。感動と勇気とを暗がりの中から紡ぎ出した彼女が。

 消えたい。その気持ちがよくわかる以上、僕に言えることは多くありません。一言だけここに書くとするならば、僕は、ただただ悲しい。

 あらためて津野米咲さんのご冥福をお祈りいたします。


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*1 赤い公園は『カメレオン』という楽曲も発表しています。

 「周りに溶け込んでいくそのそれぞれこそあなたの人格だ」という曲です。この流れを鑑みてもやはり『消えない』のジャケットは世界との違和を示唆していると言えるのではないでしょうか。
 さて、意識されてるのかされていないのか、『カメレオン』の冒頭は海と炎から始まります。

海が青いなら
この身のすべてを青く塗れ
炎が赤いなら
真っ赤っ赤な怒りよ滾れ滾れ

 「私」という不器用なカメレオンは、タイタン号にも人形町にもなじむことができず、果ては宇宙=世界からすら疎外感を感じてしまう…。などというのは、さすがに邪推がすぎるでしょうか。

 何にせよ、『カメレオン』が名曲であること、ひいては津野米咲さんが作られた曲は名曲ばかりであることには間違いありません。悲しさが募るばかりです。

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