虹をわたったハグロトンボ

 みなさんはハグロトンボと呼ばれる羽の黒いトンボを見かけたことがあるでしょうか?色々な種類のトンボがいますが、羽の黒いトンボは少しめずらしいようで、見かけることは幸運の兆しであると言われています。また、ハグロトンボは神さまの使いであるとか、亡くなった人の化身であるとも言われています。こうしたハグロトンボにまつわるエピソードをひとつ、ここでご紹介させていただきます。
 ある女性が亡くなり、地球をはなれて素敵なところへと旅立ちました。彼女自身はそこにいてとても幸せでした。でも地球に残してきた我が子が悲しみにくれているのではないかといつも気がかりで、どうしても忘れることができませんでした。そこでこの悩みをその世界のイリスという名の女神に相談してみました。するとイリスは次のように教えてくれたのです。
 「ハグロトンボになって、その姿を残してきた人にひと目でも見てもらえれば、その人は愛を感じることができます。そのためには、まずこちらの世界でハグロトンボに姿を変えてから、永遠の虹と呼ばれる橋をわたって地球に帰らなければなりません。そうして地球に帰ることができたら一度だけ、たったひとりだけ、残してきた人に会うことができます。でも会えるのはほんのひと時です。会えたらなるべく早く虹を見つけて、それをわたってこちらに戻ってきてください。なぜなら、地球に長くいればいるほど体は重くなり、飛べなくなってこちらへ戻れなくなってしまうからです。飛べなくなったハグロトンボは地球の地面のなかに閉じこめられてしまいます。また仮にどうにか虹を見つけて飛べたとしても、重くて飛びきることができなければ虹の中に閉じこめられてしまいます。もしあなたがそれでも地球に帰る勇気があるのなら、今からわたしがえがく小さな虹のゲートを通りぬけてみてください。」
 そう言ってイリスは大きく手をふるようにして、空間に人の背丈より少し大きいぐらいの半円をえがきました。一度手をふると虹のひとつの色の線がえがかれましたので、七回ふって七色の虹のゲートができあがりました。
 女性はすぐにハグロトンボになると決めました。もう一度我が子に会えるのなら、少しでもそばにいられるのなら、何であろうとどうなろうとかまわないと思ったのです。女性は思いきってその小さな虹のゲートを走りぬけました、
 すると女性はたちまちハグロトンボになってしまいました。目の前にはコスモスを思わせる色とりどりの花が一面に咲き乱れ、さらにははるかに見上げるほどの大きな虹が立ち上がっています。永遠の虹です。この虹を一方の端から反対の端までわたりきればそこは地球なのです。ハグロトンボはためらわずに近いほうの虹の端から虹を登るように飛んでゆきました。
 飛びながら、ハグロトンボは意識が遠のきそうになるのをこらえて、虹を体全体で感じました。そして、不安になると体が一気に重くなって落ちそうになることに気づきました。ですからそうならないように肩の力をぬいて、安心して、すべてを信じて虹に身をゆだねながら、虹の流れにのって花びらのような黒い羽をはためかせました。
 どれほどの時が過ぎたのかはわかりませんが、飛びながら虹をわたることにすっかり慣れたころに、いよいよ丸くて可愛らしい地球が見えてきました。それから地球がまわる勇ましい音も聞こえてきます。ここからは急こうばいの虹の下り坂です。
 坂に入ると速度も自然に増して、みるみるうちに大地が目前にせまり、あっという間にかって自分が住んでいた町のなつかしい川辺の道に降り立ちました。
 雨があがったばかりで地面がまだしっとりとしています。ハグロトンボは、この道を我が子といっしょによく散歩したことをふいに思いだしました。そうしてふと顔をあげると向こうから、ひとりでうつむいてしょんぼりと歩く我が子が近づいてくるのが見えました。まちがいありません。今でも宇宙で一番愛している我が子です。
 悲しみに包まれた我が子の姿を見て、ハグロトンボはわっと泣きだしてしまいました。母親のために悲しんでいる我が子ほど、見るのがつらくも愛おしいものはありません。でもハグロトンボはすぐに涙をこらえて、さらに力をこめてはたはたと羽ばたいて、自分からも我が子に近づいてゆきました。
 ハグロトンボは我が子が見つけてくれるように、自分を見やすいように、ちょうどそばにあった白い小屋の回りではなやかに羽をひらめかしました。白と黒の静かなコントラストは母親の眼差しそのものです。その羽の動きには、見てもらうことと見まもることの両方の意識が母性的な健気さで息づいています。
 我が子はすぐにハグロトンボを見つけてくれました。そしてしばらくハグロトンボを目で追いながら微笑んでいました。微かに笑顔が戻ったのです。ハグロトンボにとってなんと幸せな瞬間だったことでしょう。我が子が微笑み、こうしてふたりっきりでいられるのです。ハグロトンボはいつまでもこうして我が子の回りを飛んでいたいと思い、一心に我が子を見つめながら羽をはたはたとするのでした。なんとなく小さな女の子だったころの自分に戻ったように感じました。本当に幸せでした。本当に……。
 その時我が子が、あっ、と小さな声をあげました。そして続けました。
「虹だ。虹だ。お母さん!虹だよ!お母さんに虹をあげるよ!」
 ハグロトンボはどきっとしました。それから何とも言えない切ない気持ちになりました。そしてすぐに、地球での自分の最後の誕生日のことを思いだしました。その日もこの川辺の道で我が子といっしょに虹を見て、我が子が同じことを言ってくれたのです。そして数日後の我が子の誕生日に、やはり同じ場所で偶然また虹を見たのです。自分も我が子に、虹をあげるよ、と言いました。誕生日のプレゼントとしてお互いに虹を贈り合ったのです。最後のプレゼント交換でした。ふたりにとって虹はそれほどに特別なものだったのです。
 ハグロトンボは我が子の声に応えるように、風がやむように我が子の肩にとまりました。それから勇気をふりしぼるようにして我が子が指さす虹を見ました。二重の虹です。真新しい七色の虹が二重にきらめきながらあざやかな弧を描いています。こちらへ来た時の永遠の虹とはまったく別の虹で、誰かがふたりのためだけに大空に描いてくれたかのような、ダイナミックで完全な虹です。美しさでは永遠の虹にまさるともおとりません。
 でもこの美しさは別れる時がきたことのまぎれもない合図でもありました。こんなにも早く別れる時がおとずれたのです。ここで、今このタイミングで別れなければならないのを、ハグロトンボは否応なしに強く感じさせられました。二度目の別れはある意味で一度目よりもつらいものでしたが、もう一度会えた幸せのほうがはるかに大きいこともハグロトンボは実感していました。しかも会うことで我が子に愛を感じてもらうことができたかもしれないのです。母親としてこんなにうれしいことはありません。
 虹を見つめて、それから我が子を見つめて、ハグロトンボはそっと我が子の肩から飛び立ちました。我が子から離れる際に、もう一度だけ我が子の回りをぐるっとめぐって、その姿を心にしかと焼きつけました。それから虹へ向かって飛んでゆきながら、最後にもう一度だけふり返ってしまいました。遠く小さくなってゆく我が子もまだそこにて、大きく手をふってくれたように見えました。ハグロトンボは思いきって顔を高く上げて、虹を見上げて登り始めました。

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