人になった鳩

 雨にぬれながら大きな木の根元にひとりで座ってうなだれている人がいました。その人の周りにはたくさんの鳩が集まってきていました。鳩たちは、エサが欲しくて集まってきたわけではありません。その人が悲しそうで苦しそうだったから、何かの力になりたいと思って集まってきたのです。
 集まった鳩たちは、その人の周りでどうしたものかと首をクイクイさせながら、しばらくヒョコヒョコ歩き回っていたのですが、とうとう一羽の鳩がその人の前へと進みでて言いました。
「そんなに悲しくて苦しいのなら、わたしがあなたと代わります。」
 するとたちまち鳩はその人に、その人は鳩になってしまいました。より正確に言えば、鳩は鳩の心のまま人の体に入り、人は人の心のまま鳩の体に入ったのです。そうしてそのままそれぞれの生活へと自然に移ってゆきました。
 人になった鳩は一見なんの問題もなくすんなりと人間の社会生活になじんでゆきました。ただ、いつもガラス玉のような瞳できょとんとした表情をしていて、何を言ってもどんなことがあってもひょうひょうとしていましたから、周囲の人間たちもなんとなくこの人には怒ったり急かしたりする気にもなれませんでした。ですからどちらかと言えばほうっておかれたのですが、それでもどういうわけか、この人がいると不思議と気が休まるのでした。
 一方で鳩になった人も鳩の集団生活にすんなりとなじんでゆきました。とりわけ皆で空を飛べることには何事にも代えがたい新鮮なおどろきがありました。おまけに空から見ると人間たちが皆、小さく可愛く見えて光ってさえいたのです。このことにその人はとても感動しました。
 こうして人になった鳩も、鳩になった人も、どちらも新しい体でひとまずそれぞれの生を送ることができていました。そんなふうにすごしていたある日のことです。鳩になった人は、なぜなのか無性に元いた自分の人間の体に帰らなければいけないような気分になってきて、もうどうしてもいてもたってもいられなくなってしまいました。どうやら鳩ゆえの帰巣本能が発動しだしたらしいのです。帰巣本能とは元々いた場所へ帰ろうとする、帰ることのできる生まれつきもっている力のことです。
 鳩になった人はとにかくなんとしてでも群れからはなれて人間の体に帰ることにし、そのことを鳩の仲間たちにも伝えました。鳩の仲間たちはそれを聞いて皆で納得してクイッとうなずきました。それから相談し合ったうえで、その鳩の足首に何かのメッセージが書かれたものを伝書鳩のように結わえつけてくれました。そして、人の体に戻ったらまず鳩の足首のメッセージを取って読んでください、とアドバイスしました。そのことを心にしっかり留めて、鳩になった人は大空へと飛び立ちました。仲間たちはいっせいにポッポポッポと泣いて見送りました。
 羽ばたきながら地上に目をこらして、その鳩はかって自分が入っていた人間を見つけました。その人は朽ちて横倒しになった大木の幹にひとりで座っていました。鳩はねらいを定めてその人の肩に静かに降り立ちました。すると人と鳩はあっというまにまた入れ替わりました。
 人間の体に戻るとその人は、それまで自分が入っていた鳩の足首に結わえつけられたメッセージを取って開いて読みました。そこには次のようなことが書かれていました。
「あなたが雨の中の大木の根元に座っていたときに、あなたの周りに集まった鳩は皆以前は人間でした。でもあなたのように再び人間に戻る勇気はありませんでした。もし今後あなたの周りに鳩が集まることがあったら、それはわたしたちです。」
 これを読んでその人はすぐにあの鳩たちに会いたくなりましたが、目の前にいるのは自分と代わってくれた一羽の鳩だけでした。でもその人はすぐにそれで十分だと思い直しました。鳩は何も言わずにまだそこにいてくれました。その人がその場をはなれるまで決して飛び立つ気はありませんでした。
 やがてポツポツと雨が降ってきました。それに気づいたのもつかのま、すぐにどしゃぶりになり、人も鳩も激しい雨足のためにだれからも見えなくなりました。雨はどんどん激しさを増して暴風雨になり、さらには何日も続いて大地は大洪水に飲み込まれました。

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