夢見る人の顔

 異様な夢をみた。この夢について語ることについてわたしには深い躊躇いがあった。憶いだすだけで背筋に薄ら寒さを感じるのだ。この夢を文字として現実に刻印してもよいのだろうかという恐れもあった。しかしなにかの力がわたしにどうしても語らせようとする。語ろうとする今この瞬間もわたしは動悸がし、呼吸が不安定になる。だが仕方がない。思い切って語ってみよう。
 こんな夢だった。ある教師らしき人物が最期の課題をだした。その内容は"狂った人の顔を描いてきなさい。"というものだった。わたしは、妙な課題だ、と思うのと同時にそもそも絵心のないわたしに人の顔なんて描けるだろうか、それも"狂った人"だなんて、と不安になった。加えてそのまだ見ぬ"狂った人"に先走って同情した。
 現実に在る今でも"狂った人"という直裁な表現がこの夢を公にするにあたって適切かどうかに一抹の不安が過ぎる。しかし夢のなかでそうだったのだから、言葉を置き換えたりせずにそのままこの表現を用いることにした。夢のもつ本質をしかと伝えるには、その表現が最も相応しいに違いないと思えたからだ。
 さて、夢に戻ろう。わたしはあまり悩まずにとにかく、とりあえず描いてみようと思った。ところがいざ描いてみようと思っても画布、画用紙、スケッチブック、ノート、ペン、絵筆、鉛筆、絵の具といった描くための画材、道具類がないことにすぐに気づいた。すると周囲に朧げに見え隠れする同じ課題に取り組む仲間たちが、わたしにそういったものを貸してくれようとして働きかけてくれた。しかし手渡されたさきからそれらはわたしの手から消えてしまう。仲間たちは其々何度も挑戦してくれたのだが、やはりこれといったものがどうしても手に残らない。わたしは徐々に状況がよくわからなくなり、なんとなく足元が霞んでゆくような感覚に陥っていった。
 このような事態に困惑しながらも、既に提出期限が目前に迫ってきていることもひしひしと感じていた。わたしは、どうせ自分は絵なんて描けないのだから、なにか子どもの落書きじみた顔でも描きなぐってさっさと提出してしまおう、と考えていた。そしてどういう訳か、なにも手にないのに、まだ描いてもいないのに提出先へと浮遊するように向かった。
 提出先がそろそろ近づいてきたと感じ始めた頃、なぜか小さな画布が手にあった。ところがその画布に気づいたのも束の間、急激に鳥肌立つように画面にゾワッと顔が現れた。あっという間のことだった。その顔はわたしが描いた。そんなはずはないのに自作だと確信があった。しかし、わたしの技量と手際から創造されたものとはどうしても思えないような、隙のない凄味のある出来栄えだった。描いていないはずなのに描いたと感じるなんて、自分は嘘つきなのではないかと混乱した。わたしが描いたのか描いていないのか、どちらが真実なのか他の皆は知っているはずだとも感じた。
 現れたのは、古風ながらも未来的で自由な雰囲気をも纏う女性の顔だった。野趣と洗練が混在していた。美人だった。見知らぬ人だった。孤高の気高さがあったが、なぜなのか不安げな表情をしていた。しかしまだ"狂った人"ではなかった。素描といった趣きではあったが、この段階で既にある種の肖像画として名品と言える域にあった。もしレオナルド・ダ・ヴィンチがベートーヴェンのエリーゼを素早くスケッチしたら、きっとこんな風になるのではと思わせるものがあった。
 ところがその刹那、その不安げな表情が突如形容し難い微妙な動きをみせて一変した。肖像画が動画のように微かに再生した。
 次に現れたのはまさに"狂った人の顔"だった。不安げな表情をした美しい女性が微かな動きをもって"狂った人"に豹変した。この"狂った人の顔"には哀しみと恐怖と、もしかしたらやり場のない怒り、それから得体の知れないなにかが刻印されていた。その得体の知れないなにかは、不安と狂気の間の微かな動きに起因するようだった。そのほんのわずか一コマに死よりも生よりも恐ろしい瞬間が刻まれていた。落下中の激情があった。
 この肖像画自体に墜落のような衝撃があった。今こうやって、現出した狂気についてどうにか無理矢理言葉にしてはみたものの、その本質については言葉では到底表現できるものではなかった。絵でしか語れないものだった。
 皮肉にも狂ったことで肖像画が傑作になってしまった。そうは言っても、わたしは"狂った人"を目撃しただけだからまだ耐えられたのだが、もし同じ経験を自分がしたらと思うと傑作という称号は残酷でしかなかった。
 この女性を描いたわたしに彼女の狂気について責任がある可能性は否めなかった。しかしわたしではその原因がどうしてもわからなかった。夢のなかでそのことを追求できる余裕はなかった。
 あれこれ考えたり感じたりしている間にも"狂った人の顔"はわたしの手で狂ったままだった。この状況、つまり"狂った人"は狂ったままに、わたしはわたしでその人の肖像画を生首でもぶらさげるように、無期懲役刑のように手にし続ける、そんなことから逃れようとするかのように、"狂った人の顔"を一刻も早く手放すために、わたしは怯えて逃げる白い犬の如く淡い本能に従って、今一度提出先である教師のもとへ向かった。
 教師の姿が見えた。病気なのだろうか、具合が悪そうに車椅子に座っており、周囲に教え子らしき取り巻きが数人いた。わたしが近づいて"狂った人の顔"を提出しようとする矢先にその教師が厳かに宣告した。
「もう提出期限は過ぎた。」
わたしはなぜなのかそれに対して即答した。
「わかりました。では提出しません。」
わたしがそう宣言するのと同時に"狂った人の顔"はわたしの手から完全に消えてしまった。
 そして目が覚めた。しかしわたしはすぐに目を瞑った。目を開けて部屋や家のなかを見回したり、ふらふら歩き回ったりしてしまうと、薄闇のなかであの"狂った人"に出くわしてしまいそうでとても怖かったからだ。わたしはそのまま目を絶対に開けないようにして、外が明るくなるまで、"狂った人"が傍にいるような感覚が消えてなくなるまで、子どものように丸くなったままじっとしていた。
 醒めた現実を眺めながらこの夢について分析するのは困難だ。昨今の私生活や世界情勢に関する不安が反映していたのかもしれない。精神科医なら夢分析によってなんらかの診断を下してくれるかもしれない。いずれにしても、この夢がわたしのなかで心臓のように拍動し、その所為で本物の心臓が弱ってきていた。心身の衰弱と倦怠感のなかで思考と感覚の明晰さを失い、もはやこの夢がもともとわたしのなかにあったものなのか、それとも新たに紛れ込んできたものなのか、どうにも判別できなくなっていた。
 しかし奇妙なことに、わたしはこの夢に恐怖や不安を感じる一方で、あの女性のことが気がかりで落ち着かない気分に囚われ始めていた。離れたかったのにまた近づきたくなる衝動が芽生えていた。もしかしたら恋に落ちたのかもしれない。今想えば本当は一目惚れだったのだろう。恐らく、わたしにこの夢について語らせたなにかの力は、声を封印されたこの女性の叫びだった。
 どうして彼女をあんなことに?なぜ彼女を救えなかったのだろうか?わたしは無意識に彼女を狂気に堕としてしまったのだろうか?彼女は今どこにいるのだろうか?もういない人なのだろうか?どこにもいない人なのだろうか?それともわたしは、そもそも彼女とは全く関係がないのだろうか?だとしたらなぜ、見知らぬ女性の狂った顔をわたしは描いてしまったのだろうか?
 こうやって彼女のことを案ずるうちに、こうして語っているうちに、この夢を恐怖ではなく希望の兆しにしたい、描き直したい、というひとりよがりな気持ちが湧き起こってきた。この夢の続きを怪奇めいた悲劇にはしたくなかった。堕ちた人間のわたしだからこそ、わたしが堕としてしまったかもしれない彼女を今度は救いたかった。双方が堕ちることで邂逅したこの夢の世界で、彼女を探して見つけ、再会したかった。もう彼女には逢えないと、わたしには希望を現実化する力がないとわかっていても、彼女を描き直したかった。彼女を勇気づけるような、彼女が喜んでくれるような、彼女のためだけの一世一代の傑作を彼女に残したかった。それを描き上げるためなら、わたしは何度でも夢のなかに迷い込み、目が覚めてしまうまで彼女の面影を頼りに彷徨うだろう。
 今日描けなかったら明日だ。明日もだめなら明後日だ。明後日もだめなら…こうして挑戦は永遠に続く。しかしもし目が覚めなかったのなら、その時はわたしが傑作を描き上げたということかもしれない。
 だからわたしは今ここで、自らに課題を課した。その課題は次のようなものだ。"夢見る人の顔を描いてきなさい。"。

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