『ウクライナ、地下壕から届いた俳句〜The Wings of a Butterfly〜』ウラジスラバ・シモノバ著 黛まどか監修 【わたしの好きな本】

 ウラジスラバ・シモノバさんという現在24歳のウクライナの俳人の句集が日本で発売されました。彼女はロシアと接する北東部の都市ハルキウの出身ということもあり、第一言語はロシア語なのでロシア語で書かれた句を日本語に訳しての出版になりました。
 このような複雑な背景があるが故か、彼女はもうロシア語を諦め、これまで書いてきた八百近いご自分の句を今ウクライナ語に書き直しているそうです。このことだけでも、ウラジスラバさん、及びウクライナの人々がおかれている状況や心情を察して心苦しくなります。
 この句集、本のことをわたしなりに一言で形容すれば"ウクライナの生け花"という言葉がしっくりきます。しかしその生け花は室内に美的に置かれるようなものではなく、侵略による破壊の嵐のなかで必死に耐えている、倒されたり吹き飛ばされたりしない野趣ある生きている花なのであり、さらに言えば人々のあたたかい手によって生けられたという意味で生け花なのです。
 またこの句集は、女性によってつくられた本であるということもできます。著者のウラジスラバさんは勿論、監修に携わってくださった黛まどかさんを含めて十二人の俳句に精通した日本人女性によって日本語に訳されました(その他にも性別はわかりませんが翻訳においてウクライナ人とロシア人の方々が関わってくれているそうです)。このことによって、訳された句はもちろんのこと、同様に句の背景を語るウラジスラバさんのエッセイ等の長めの文章とその訳においても、俳人ならではの、女性ならではの研ぎ澄まされた感性、磨き上げられて澄んだ言葉の連なりを感じます。俳句をやっている女性たちが本をつくるとこんなにも洗練されたものになるのだと感心させられました。
 また、ウラジスラバさんご自身で撮影なさった素敵な写真も花を添えています。ウラジスラバさんの句やエッセイ、写真や姿そのものに、この人は本質的に詩人なんだ、と感じさせるものがあります。その他にも巻末には、セルギー・コルスンスキー駐日ウクライナ特命全権大使と黛まどかさんの短いながらも深く哲学的な対談が掲載されています。こちらも必読です。
 ところで、普段小説等の比較的長めの文章を読み慣れているわたしのような人間にとっては、当初五十句しか所収されていないこの本は物足りないように感じました。しかしそれは全くの間違いであることが何度かページをめくるうちに明らかになりました。この本においてはどの言葉も、たった一文字も読み落としてはなりません。言葉や文章の密度が濃いのです。無駄がないが故にどれも外すことはできません。俳人や歌人、詩人の書く文章は無駄を削ぎ落とすことで澄んでゆき凝縮され、濃厚になります。言葉が少ないかわりに余白が多くを語っています。言葉自体と自分の感性、それから読者を信頼している人々だからこそ成せる業です。物足りないどころか何度も開きたくなってその都度何かを感じさせられるのです。
 ここから少し所収の句の内容についてもふれてみます。ウラジスラバさんは"戦争は私たちの人生を「前」と「後」に分けました。"と仰っています。それは2022年2月24日の前と後ということですが、いわゆる「前」の時代にもなかなか心惹かれる句があります。個人的にこの頃のウラジスラバさんの句も好きです。今回のロシアの侵略行為がなかったとしても、わたしはウラジスラバさんの句を好きになったことでしょう。ひとつ引用させていただきます。

さくらさくら離れ離れになりゆけり

 この句は今の本格的なロシアの侵略前の2014年5月17日の作です(但し直前にドンバスとクリミアには既にロシアの手が伸びていた)。どことなく未来を暗示しています。この句に続く、句について語るエッセイのなかで、つまり2022年2月24日以降に書かれたエッセイでウラジスラバさんは次のように仰っています 
「戦争の風は人間という花をさらにひどく散らしてしまいました。中略……それでも、私は信じています。また必ず春が来て、桜はかってないほど美しく咲くのです。」
 現実を句によって表現するだけでなく、余白を希望のために残しているのです。因みにわたしはウラジスラバさんの書くエッセイもとても好きです。エッセイにもセンスの良さを感じます。芭蕉もそうでした。『奥の細道』は句は勿論のこと、それを取り巻く文章も素晴らしかったのです。
 一旦少し話はそれますが、この本の出版に合わせて日本記者クラブの『著者と語る』というシリーズにウラジスラバさんと黛まどかさんがご出演になりました。YouTubeで視聴できます。あらゆる意味で大変貴重な内容ですのでぜひみなさんもご覧になってください。ウラジスラバさんと黛まどかさん、どちらも大変気品のある女性だということがこの動画からは伺えます。取りも直さずお二人の気品がこの句集に反映されていることはまちがいありません。
 さて、話を戻しまして、その会見のなかでいくつかの句が、ロシア語から日本語に直訳された段階のものと発表された完成句を対比するかたちで紹介されています。どの句の翻訳も携わってくれた方々の深い洞察に支えられていることがよくわかる内容でした。先にあげた句は直訳段階では以下のようだったそうです。

飛び去る
風に乗る桜のように
親しい人たち

 これはこれで味わい深いものがあります。この状態でもわたしは好きですが、やはり句を完成させた訳者たちの力量にも感心せざるを得ません。この対比、及び翻訳のプロセスはわたしにとってとても興味深いものでした。わたし自身は考えたように、話すようにしか書けない性の人間なので、どうしてもそれを五七五のような「型」に昇華させることができません。ですから俳人や歌人の方々には言葉にはできない真性の憧れがあります。今回の会見でのこの直訳と完成句の対比は「型」におさまってゆくという、蝶が蛹に再びおさまるかのような、蛹になることで蝶を表現したかのような、殻を脱ぎ捨てることや脱皮とは逆の変性プロセスによって解放されたかのような新鮮な驚きがありました。
 また会見のなかでウラジスラバさんが仰っていたのですが、彼女は五七五の音節を崩さないように指で数えながら句をつくっているそうです。五七五の音節が好きなのでこの伝統的な「型」のなかにおさめたいと思っているそうです。また句集のまえがきのなかで同じことを伝統と「型」へのオマージュであるとも仰っています。「型」におさまることで結果的に「型」から解放された幽玄で深遠な世界に俳句は誘ってくれるのかもしれません。制約をもうけることで思ってもみなかった未知の部分が発動しだすのです。
 ではここでもうひとつ、今度は2022年2月24日以降の「後」の句のなかからあげてみます。

ミサイルに傷つきし薔薇花束に 

 ミサイルに傷ついた薔薇を拾って、もしくは摘み取って束ねるというささやかな動作。行動。生き続けるために自然と発露されたものなのでしょう。ペンを握るように薔薇を束ねたのです。"ミサイルに傷つきし薔薇"という表現も実物とも何かの比喩ともとれて、博愛的とも言える広がりを感じさせます。
 最後に、会見のなかでウラジスラバさんは次のようなことも仰っています。
「すべてのウクライナ人がそうであるように、わたしはわたしたちの勝利とできるだけ早い平和を期待しています。わたしたちウクライナ人が毎日どれほどの犠牲を払っているのかをわたしたちは理解しています。自分の家に帰り、仕事に就き、通常のように平穏な暮らしをおくれるようになる、それがわたしの夢です。その時がくるまで私は戦争に対する武器のように、自分のペンを握って戦争に立ち向かいます。わたしはウクライナという遠い国の若輩の俳人(詩人)です。」
 ウラジスラバさんのご自分の本の出版という夢がかなったこと、それから近々ご結婚されるとのこと、そのどちらもロシアの侵略行為下で実現させるというウラジスラバさんの強さ、ウクライナの人々の強さをこの場で讃えたいと思います。Слава Україні!

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