平和は女の顔をしている-『戦争は女の顔をしていない』を読んで女性の顔を想う-

 これから話をすすめるにあたって、まず著者のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさんの言葉を『戦争は女の顔をしていない』から引用してみよう。
 "まるまる一つの世界が知られないままに隠されてきた。女たちの戦争は知られないままになっていた……"
 この一文をわたしなりに次のように言い換えてみる。
 "まるまる一つの顔が知られないままに隠されてきた。女たちの顔は知られないままになっていた……"
 ところで、そもそも"顔"とはなにを象徴しているのだろうか?古今東西様々な場面で"顔"が象徴として使われるとき、恐らくは使った人自身もその表すところをぼんやりとしか捉えていなかった可能性が高い。斯く言うわたしもそうだ。
 しかし確実に言えることは、"顔"にはいくつかの感覚器官が凝縮されており、言葉が光のように放たれるところであり、感情や心理を表情として開示するものでもあるということだ。そして"顔"は人間がお互いを真っ先に認知する部分でもあるし、更に言えば、手や足や乳房やお尻に比べて、深遠で複雑な事柄を表現できるということも間違いない。
 そうは言っても、"顔"とはなにか?という問いから答えを引きだすことはやはり簡単ではない。それは"人生とはなにか?"という問いと似ていて答えは千差万別で、しかもそれら全てはそもそも答えですらない可能性もある。断言できることと言ったら、だれもが人生を歩むということ、だれにも"顔"があるということぐらいだ。
 話を女性の"顔"に戻そう。なぜ女性の"顔"は隠されてきたのだろうか?なぜ女性だけが"顔"を隠さなければならないのだろうか?
 なにかを隠すとき、なにかが隠されるときにはその根幹に必ず謎がある。たとえば、なぜアダムとイヴは知恵の木の果実を食べて陰部を隠したのだろうか?果実と陰部の間に一体どんな因果関係があったのだろうか?これは永遠の謎だ。
 女性の"顔"は美しい、美しいものは人を惑わせる、だから隠して欲しい、といったような心理及び論理が働いて、男性は女性に"顔"を隠させた可能性があるが、勿論理由はそれだけではないだろう。またそもそもの発端として、女性が自ら"顔"を隠したのでもないような気がする。
 男性が女性に"顔"を隠させた節はどうしても否めないが、実際になにが"顔"に作用したのかはやはり不明だ。歴史、哲学、文学、芸術、音楽、美容、服飾といった様々な分野で人類はその神秘に半ば無意識的に迫ってきた。しかしこれといった答えは得られないままであるし、これからもそうであろう。
 全ての男性は女性から産まれたという紛れもない事実も女性の"顔"についてなにかを暗示しているのかもしれない。男性は女性の下半身の"顔"にも自分が這いだしてきた巣穴のように恋焦がれ、またそこに入りたがる。しかも自分にはそれがないし、自分は出産できない。結果的には、女性だけが大変な苦しい思いをして新しい"顔"が産まれてきてしまう。
 話は変わるが、男性のほうが女性よりも男性ホルモン等の脳内物質の分泌や心臓と心理の関係、骨格、筋肉といった生物学的要因故に、暴力や殺人といった反社会的行動に及びやすい傾向があるそうだ。
 たしかに男性は武器や争いが好きで、カッとなるとすぐに手が出てしまう。また腕力や大きさを誇示したがる性質も強いのだが、それは裏を返せば弱さの証でもある。つまり、女性に好かれ、支配し、虚勢を示したいのだ。そのことでしか女性に対して優越感を保てないのだ。優越感など人間には必要ないのに男性はそれに固執してしまう。勿論全ての男性がそうだとは言わない。
 生物学的要因が男性の攻撃性を説明できるという研究結果等を待つまでもなく、歴史上、戦争や殺人に奔走してきた割合において、女性よりも男性のほうが多いことは明白だ。独裁者や将軍、犯罪者といった人々のほとんどは男性であるし、そもそも『戦争は女の顔をしていない』を読んでも明らかなように、女性の感性、感覚、感情、性質、肉体は戦争とは相容れない。逆に言えば男性的な性質に合うように戦争は出来ているし、男性的な性質が戦争を具現化したとも言える。
 では男性なんていないほうがよいのだろうか?それも極端な話になってしまう。男性がいなくなれば女性もいなくなってしまうのだ。つまり生殖が成り立たなくなってしまうのだ。聖母マリアのように"処女懐胎した"という女性たちが出始めているという報告をどこかで聞いたが、そのような女性たちが大多数となるには人類という種全体の霊的な成長がまだまだ必要で、それは少し遠い未来の話になるであろう。
 このように色々考えてみても結局、女性は暴力的な男性の"顔"を好んでいないにも拘らず、それと共存することを宿命づけられているのだ。男性がいなくなることがないのと同様に、暴力がなくなることも残念ながらないと予想されるのだ。よって、暴力行為を好む人々がいつでもいるという前提で、暴力や侵略行為及び殺戮についての解決策を模索しなければならない。
 次に提案する解決策は半分以上冗談であるが、暴力的な傾向の強い男性たちだけを集めた"男顔(弾丸)自治毒裁共和国"を建国するというのはいかがであろうか?そこで彼らは自分たちだけで争い、毒を盛り合い、奪い合いながらそれを本能的に闇雲に楽しんで暮らす。だれも彼らを邪魔しないし、周囲の国々も決して彼らを脅かしたりはしない。自ずと彼らは他国へ侵略しようなどという気を起こさなくなり、常に心身共に満ち足りていて、そこで自分たちの好きなように自給自足と狩猟とカニバリズムや争いに励みながら混沌と暮らす、といった風に世界で取り決める。彼らがまるで他の恐ろしい惑星に棲息しているかのような状況をつくりだす。
 これによって地球はかなり平和に近づくかもしれない。勿論、ことはそんなにも単純ではないと思う。そもそも彼らはこんな案に納得するはずもないし、彼らの性質からして、自国内だけでは飽き足らずに、退屈して周辺国へと侵略をすることも間違いない。だから結局はあまり効果のない案ということになってしまうのだが…。つまりなにを言いたいのかというと、もうその"顔"は見たくも思いだしたくもないのだ。ただそれだけなのだ。
 では人類は暴力や殺戮とどう付き合っていったらよいのだろうか?暴力的な人々がいつでも無実の無関係の人々を巻き込んで、争いを引き起こして暴れ回ってきたことは歴史が証明している。今もそれは続いている。今すぐにでも彼らにどうにかしてもらわないとならない。決していなくならないであろう彼らの魂に突然変異が起きて平和のために行動してもらいたい。彼らの侵略的な暴力や殺戮が自分自身をも破壊していることに一刻も早く気づいて欲しい。
 なぜそういう暴力的な男性の"顔"をした人々は後を絶たないのだろうか?生物学的要因故なのはわかる。しかし平和を望む女性の"顔"をした人々の数のほうがこの地球では圧倒的に多いはずだ。数が少ないはずの、腕力で勝る暴力的な男性の"顔"が優位になってしまうのはなぜなのだろうか?腕力や暴力や殺戮とは一体なんなのだろうか?なぜ暴力には力があるのだろうか?暴力を上回る健全な力は存在しないのだろうか?
 哀しいことに暴力という男性の"顔"が地球の方向性を定めてしまっている。その"顔"の向いている方へ人類は堕ちようとしている。しかしひとつだけ人類を、地球を救えるかもしれない方法がある。この"顔"を女性のものに変えるのだ。
 男性の"顔"に暴力性があるのは避けられない。しかし暴力行為は避けられる。女性の"顔"なら暴力という行為を避けることができる。女性の"顔"は暴力性を実行に移さない。
 『戦争は女の顔をしていない』のなかで次のようなスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさんの言葉がある。
 "女たちが語ってくれたことにはとてつもない秘密が牙をむいていた。わたしたちが本で読んだり、話で聴いて慣れていること、英雄的に他の者たちを殺して勝利した、あるいは負けたということはほとんどない。女たちが話すことは別のことだった。「女たちの」戦争にはそれなりの色、臭いがあり、光があり、気持ちが入っていた。そこには英雄もなく信じがたいような手柄もない、人間を越えてしまうようなスケールの事に関わっている人々がいるだけ。そこでは人間たちだけが苦しんでいるのではなく、土も、小鳥たちも、木々も苦しんでいる。地上に生きているものすべてが、言葉もなく苦しんでいる、だからなお恐ろしい……"
 逆に言えば、男性の語る戦争は英雄や手柄や勝ち負けや暴力や殺戮なのだ。そしてそれらが男性の"顔"であり、女性の"顔"はそうではないのだ。
 昨今のウクライナを取り巻く情勢のなかでいくつもの女性の"顔"が独裁者や侵略及び殺戮行為に対峙している。
 ウクライナのゼレンシキー大統領のパートナーのオレーナ・ゼレンシカさん、ウクライナ副首相のイリーナ・ペレシチュクさん、ウクライナ国防次官のハンナ・マリャルさん、モルドヴァ大統領のマイア・サンドゥさん、ベラルーシの独裁者ルカシェンコ大統領に立ち向かったスヴェトラーナ・チハノフスカヤさん、ヴェロニカ・ツェプカロさん、マリヤ・コレスニコワさんたち"女の顔の革命"を主導した女三銃士、フィンランド首相のサンナ・マリンさん、ロシア国営テレビ放送中に戦争反対のメッセージを掲げたマリーナ・オフシャンニコワさん。オレクサンドラ・マトイチュク代表率いるノーベル平和賞を受賞したウクライナの人権団体「市民自由センター」(CCL)。そして勿論、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさんもここに加わる。
 彼女たちは、かって黒海沿岸に実在していたと言われる女性戦士アマゾネスのような人たちだ。彼女たちの"顔"をロシアのウクライナ侵略がらみで列挙してみただけだが、これだけでも薔薇園のようにしっとりとした迫力がある。
 他にもまだまだ男性的な暴力に女性の"顔"で対峙している人々は世界中にたくさんいると思うが、とにかく美しい"顔"の女性たちだ。
 このように、政治等の場面で活躍する女性たちの"顔"が最近多く見受けられるようになってきたが、これは善い兆候だ。今後もっと表舞台で女性の"顔"が見られるようになれば、男性が力ずくで略奪していることがより滑稽味を帯びてきて、自然と女性の影響力が地球に増してゆくことだろう。
 いつの時代も平和をぶち壊すのは男性の暴力、つまり"顔"であった。昨今、核兵器をちらつかせてウクライナを侵略するロシアという"顔"を目の当たりにして、その醜さについては世界もいい加減にうんざりしているはずだ。一方的な暴力で物事を解決しようという発想は極めて男性的で完全に時代錯誤だ。
 躊躇なく改めて断言しよう。暴力は男性の"顔"をしている。女性は基本的に暴力でなにかを手にいれようという気は起こさない。女性はそんなことには興味がない。それが女性の性質であり気質だ。勿論例外はあるだろうが、暴力の行使にあたっては、幸いなことに女性は男性ほどに執念深くはない。繰り返すが、女性はそんなことに興味はないのだ。先述したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさんの言葉がそのことをなによりも証明している。
 ロシアのウクライナ侵略に世界が対峙している今こそ、女性の感性で地球のバランスを整える必要がある。これまでの地球は男性的すぎたのだ。それはなにかの間違いだった。今後はバランスを本来のものに戻さなければならない。女性の丸味を帯びた感性や感覚は地球の形に合致しており、地球の本来の姿に最も自然に馴染む。言い換えれば地球そのものが、地球の素顔が女性の"顔"なのだ。地球は中性的というよりもよりやや女性的なのだ。地球は月から眺めれば素敵な女性の"顔"で、女性の手でお肌の手入れをしたりメイクを施すのが美の秘訣なのだ。それこそが平和を保つ方法だ。男性は邪魔せずに黙って女性を眺め、必要とされたときだけ手を差しのべればよい。
 平和は女の顔をしている。男性たちよ、もっと女性の声に耳を傾けて、女性に席を譲ろう。その意味で、男たちよ立ち上がれ、と言いたい。

参考文献
*『戦争は女の顔をしていない』
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著 三浦みどり訳 岩波現代文庫
https://amzn.to/3QYbchV

*アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(NHK100分de名著)沼野恭子解説https://amzn.to/3OSTlGk

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