「長崎の鐘」が歌われるまで-永井隆博士を想って-

いつものように、長崎医科大学の外に朝から並ぶ患者の列を診察室に入る前に、永井隆博士は、見ていたようだ、8/9もそうだった。

永井博士は白血病であったため自身の残りの命の時間を日々考えていたが、長崎医大の外に並ぶ自分の患者たちには治せば自分よりはるかに長い時間があるようにも考えていたようである、8/9日まではそうであった。

いつものように朝から並んだ患者を診て、同じような夏の日が明日も来るはずであった、8/9までは……そうであるはずだった。

原爆が投下された時、永井博士は、鉄筋コンクリート造りの長崎医大の診察室の中にいた。怪我を負いながらも、患者たちが並ぶ外に出ると、並んでいた患者たちの列やその周囲は先刻とは全く違う光景になっていた。


必死に救護活動をするが、翌日(8/10)、米軍のビラをみて、はじめて、投下された爆弾が原子爆弾であることを知り、博士は絶望したそうだ。

永井博士こそ放射線医学専門の医師であるし白血病患者でもあるので、放射線被爆の怖さは知っていた。

しかし、だからこそ、「これほど早くに、原子爆弾が投下される時代が早く来るとは……。」と博士はビラを手に絶句したそうである。

永井博士のなかでは、「そうであったはず、が、あるとき、突然、瓦解した」さまざまなことが去来していた。

首席で卒業し内科医になるはずが、ある日の帰り道に傘もささずに雨に打たれた際に耳に入った水が中耳炎を起こし、結果右耳が聞こえなくなり、うまく聴診器が使えないから、放射線医学の専門になったとき。日本は戦争に勝つと言って自身も疑わなかったが、敗戦をむかえたとき。そして、8/9。

戦時中のフィルム不足から、結核の検診は主に透視(→X線に依る画像を直に近くで目視)で行っていたため、永井博士の身体は1940年くらいから白血病に蝕まれていた(正式な診断結果は1945年)。

長崎医大の外に並ぶ患者たちより自らの方が短い命だったはずが、生き延びた、という現実を、戦後、永井博士は子どもたちと生活するなかで、語り続けた。後の医師のために最後まで自らの白血病を白血病を診る長崎医大の医師たちにみせていたようである。


(ここまで永井博士の子どもである方々のお話を伝え聞いた(私の出身が中学・高校がカトリック系のミッションスクールなので)範囲で、私なりに描きました。)


永井隆博士が著した「長崎の鐘」という本は、原爆被害の部分はカットされながらも(GHQの検閲を考慮して)その精神を受け継ぎながら「長崎の鐘」という歌になった。今日は、より静かな気持で聴いてみたいと思う。

ここまで読んでくださりありがとうございます。ちょっと感情が入り過ぎちゃいました。では、また、次回。


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