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「最大多数の最大幸福」の濫用がもたらすもの

DSM-5(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disordersの略、以下DSM)

の「正しい」目標は

診断の抑制と診断のデフレ

にあったようだ。

DSM-4では、

精神の「正常」と「異常」あいだに線を引こうとするとき、

功利主義を最善の、もしくは唯一の哲学的指針とするアプローチを用いていた。


(かばうようだが、DSM-4、DSM-5の作成者は、功利主義の、「最大多数の最大幸福」過ちを作成者は十分理解していた、と、私は考える。)


前に描いたように、

「正常」と「異常」を厳密に定義など出来ないし、

普遍的な意味など求めようがない。

「正常」と「異常」は、

視座次第で、その視座のおかれた、ときところそれらに基づく文化により変わる。


ゆえに、「正常」と「異常」の境界線は、

異なる選択をしたときに、どのような正負の影響があるかといったバランスに基づくべきであり、何が最善の結果を生み出すことが可能かを考えつつ決断すべきである。


したがって

(ベンサム的に)「最大多数の最大幸福」をつねに追求(希求)しなければならない


、と、なる。

しかし、現実的な功利主義を貫こうとも、それが当てにならないケースが存在することは否定しがたい上に、

「大小をどのように測定し、幸福をどのように定めればよいのか」という「最大多数の最大幸福」の曖昧さに立脚した構造を直視しなくてはならないと私は、思う。

功利主義が、現代ドイツにおいて、いまだ不人気であることは、偶然などではなく、ヒトラーのせいである根深い嫌悪感と悪評が消えないことに起因する。

ドイツが、第二次世界大戦中に、

その戦前戦後ならまちがいなく

「異常」

と見なされる蛮行をおこなったのは、

支配人種の最大幸福のためには必要だと、

功利主義の立場から、当時はことごとく正当化したからである。

歪められた統計的な「正常」が、あるべき世界や慣習に則った世界そして人間の尊厳がある世界の「正常」をあるいっとき圧倒してしまったのである。

邪な手に落ちれば、功利主義は、善き価値観から目を背け、悪しき価値観に歪められてしまうことは悲惨な歴史が証明している。

功利主義、とくにそれを象徴する「最大多数の最大幸福」の扱いには眼を光らせるべきであろう。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

G20に習近平国家主席が不参加のようです。

日本を取り巻く国際情勢も暗雲が垂れ込めているような……。

とはいえ、とりあえずでも、まず目先のやれることをやろうと思います。

今日も頑張りすぎず頑張りたいですね。

では、また、次回。

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