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マルコによる福音1:40∼45「シェガレ神父の説教」

B年間6主日 マルコ1,40-45 
皮膚病の人の癒し 渋川 2024

さっき朗読された福音に出た人の病気はハンセン病です。当時この病気がかかった人は三種の苦悩を負うことになっていました。一つは体の変形と麻痺。これ以上苦しいことがないです。二つ目は町や村に暮らす一般の人々との隔離の規定です。日本も、明治時代以降、ハンセン病の患者は誰とも接触できず、家族との関係を切ってしまいました。三つ目の苦悩は宗教からの波紋です。イエスの時代ではハンセン病があった人は汚れた存在とみなされ、宗教共同体だけではなく、救いから排除され、深い失望や孤独な人生を強いられていました。
 ところが今日登場するハンセン病の人は勇気を持って接触禁止の規定をやぶり、イエスの所に来て膝向き、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と癒しを願います。この言葉はハンセン病の人の遠慮と同時に信仰の現れです。イエスの意思を尊重しながら、癒す力を信じているからです。イエスはハンセン病の人を「深く哀れんで」、接触禁止のルールを破り、手を伸ばし、肌に触り、「深く哀れんで」ということばはマルコ福音の写本には「ためらって」となっています。イエスはハンセン病の感染力を知っていて、一時ハンセン病人の肌に触るのをためらったかもしれません。しかしイエスはためらいが哀れみに変わっていき、病人の肌に触り、ハンセン病の人を安心させて、周りの人に対して彼こそ神に愛されて、皆の兄弟だというメッセージを送ります。そしてイエスはこの人を癒すだけではなく、社会復帰の手続きを教えます。司祭の所に行き、清くなった証明書をもらい、家族に戻れるように指示します。 
 医学の進歩のおかげでハンセン病の病気が克服されて、日本をはじめ、ほとんどの国で消えつつあるが、代わりにHIVとコロナのような新しい疫病がどんどん現れてきます。ハンセン病の人と同様に感染された人は隔離され、周りの人から差別を受けたりします。しかし現在もっと恐ろしい現代病があります。心の病です。何事にも意欲や喜びを持ったりすることができなくなる病気です。この病気のため人格や他の人との関係性が破壊され、辛い疎外感が覚えます。ある日、東京にいた時、一人の青年が私の部屋に現れたことを思い出します。一時どうしたらいいかとためらいを隠せなかったが、彼の孤独を見て、共感を覚えました。イエスの力を持っていないので癒すことはできなかったが、彼の話を聞いた後に、一緒に祈ることができました。そしてカウンセリングの知り合いを紹介するようにして、彼が早く治り、社会への復帰できるように、彼を励ました。その後この青年は見えなくなったが少しでも元気になられたら幸いだと今でも祈っています。
 ライ病の話に戻るが、癒されたハンセン病の人は町に入って、「だれにも、何も話さないでください」とイエスの命令を破り、癒された喜びを隠せずに、町の人々に良き知らせである福音を言い広めます。イエスは逆に町の外に、人のいない寂しいところに出て行きます。状況は100%逆転するわけです。ハンセン病の人は町の人々に福音を告げるが、逆に「イエスはもはや公然と町に入ることができず、誰もいない所に行っておられた」と書いてあります。イエスは人々を避け、誰もいないところに行った理由は何だったでしょうか。私にはまだその意味がよくわからないが、多分イエスは皆の人気者となることを避けて、長い間に隔離を苦しんだハンセン病人の体験をしてみたかったです。これは私の解釈だが、皆さんに考えていただきます。

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