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マルコによる福音1:29∼39「シェガレ神父の説教」

B年間5主日 マルコ1,29−39 
イエスの一日 渋川 2024

 今日はイエスの忙しい一日が描かれています。朝会堂に入り聖書の朗読をします。終われば会堂を出て、シモンとアンドレの家を訪問し、熱があったシモンの姑に寄り添い、彼女の手をとって安心させてくれます。わたしたちもお見舞いの際、病人は話ができないなら、彼の手を取り、手を撫でて、握ったまま、そばにいるだけでいいわけです。人の手を取ることは人を安心させ、癒す効果があります。福音書のなかにイエスは度々人の手をとって、立ち上がらせたり、社会へ復帰させたりする場面があります。
 夜遅くまでシモンの家にいたイエスは人が連れてきた病人を歓迎し、夜は短い休みを取り、朝早く起きて、山に入り、祈りをはじめたと書いてあります。そうするとイエスを必死に探していた弟子たちは「皆があなたを捜しています。町に戻って下さい」と願います。しかしイエスは彼らを落ち着かせて、町に戻らないと答えて、「他の町や村に行きます。私は宣教をするために出て来たから」と言います。毎日忙しいのに自分の住む町だけではなく、他の町に出かけなければならないと弟子たちに答えます。
 マルコ福音書が描かいているイエスと弟子たちたちの関係にいつもズレがあります。彼らは焦っていて、イエスの教えをゆっくり受けとめる余裕がなかったので、いつもイエスの言うことの意味を誤解していました。彼らは子供がイエスに近づかないよう、ライ病人の叫びがイエスの耳に届かないように、排他的な態度をとっています。それに対してイエスは多忙の時でも忙しい顔を決して見せず、忙しい雰囲気を感じさせません。忙しくても、予想外の訪問客を受け入れたり、余裕をもってゆっくり散歩をしたり、野の花、空の鳥を眺めて感謝し、祈りを忘れず、いつも他の人のために時間に余裕を持っています。
 現代社会多くの人はせかせかと動き回り、いかに自分が必要とされ自分が忙しいことを周りの人に印象を与えたいです。教会も時々そうだが忙しさよりも、のんびりした方がいいでしょう。忙しい教会は排他的で、皆が疲れて、初めて来た人は入りにくいものです。                                                     
 福音の箇所に戻るが、焦りのほかに弟子たちの頭には打算的な思いがあったかもしれません。彼らは癒しの能力を持っていたイエスの力を町の人々のために効率よく活用したかったかもしれません。イエスの奇跡のおかげでファンが増え、イエスの宗教運動はどんどん勢力を伸ばしたことは弟子にとって得でした。イエスは度々こうした弟子たちの打算的な気持ちを咎めています。奇跡は信者を増やすための宣伝手段であってはなりません、他の新興宗教の教祖のようにイエスは奇跡を売り物にしません。奇跡は神の国が近づいたしるしとして受け止めなければなりません。また福音の良き知らせは恵まれた少数なエリートの独占はなく、全ての人、特に社会から見捨てられた人に伝えなければなりません。「私は他の村や町に行かなければならない。」その言葉を受けとめて弟子になった私たちはイエスを独り占めするのではなく、イエスに従いながら、外に向かっていき、余裕を持って、福音を伝えていきたいと思います。

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