ヨハネによる福音10:11∼18「シェガレ神父の説教」
B 復活4主日 ヨハネ10,11−18
良き牧者 2024
さっき有名な善き牧者の喩え話を聞きました。旧約聖書にも神が民の善き牧者として喩えられています。「神よ、私の牧者、私には欠けることがない。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」と。神である善き牧者と対照的に、「群れを養わず、自分自身を養う」イスラエルの指導者が預言者たちに厳しく批判されています(エゼ10,11)。新約聖書にもイエスは私が善き牧者であると述べ、羊のことを心にかけて、羊をあらゆる危険から守り、一匹一匹の名前を覚え、群れのために命を棄てると言って、群れを豊かな牧場に導いていきます。
聖書に、緑の牧場は豊かさの象徴であって、一人一人がのびのびできる環境、信頼関係、相互理解、愛と希望が溢れる場所です。
今の社会は科学の進歩のおかげで、モノや情報が溢れている反面、お互いのコミュニケーション、喜びの共有、開かれた対話、感謝と共感が少なくなり、自分さえ良ければいいという狭い個人主義が増えています。
こんな状況の中で、教会は良き牧者の指導の元に牧場に向かって、福音につながる真の豊かさを目指す新しい羊の群れです。多分日本では羊の群れという表現は、誤解しやすいです。「群」のイメージは「型にはまり」、個性や独創性がない、ベタベタで、自分の考えや意見を持たない盲目的な従順に間違えられます。しかしこれはもちろんイエスが言っている豊かさではありません。教会の群れの中、いろいろなタイプの羊があり、皆の個性が大事にして、皆が励まし合い、認め合い、声を掛け合って、一致を求めています。移民の方が多い群馬の教会は様々な国の人がミサに混じり合い、多国籍教会の恵みを受けていると思います。イエスの導く教会の群れは多様性の上に成り立ち、同じ霊に生かされても、皆がそれぞれの歩き方をしながら一致を目指しています。
もちろんこの一致は排他的な一致であってはなりません、私たちは善き牧者の指導のもとに囲いの門を潜って外に出かけなければなりません。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」 とイエスが弟子たちに述べています。この言葉の中に人類の一致を求めるイエスの望みが込められています。 教会の一番の誘惑は日本の司教たちがいつも警告するように、共同体内への閉じこもり、会員制クラブのような集団作りです。
イエスの言葉にあるように教会の囲いに入っていない羊が大多数です。この羊たちもイエスの群れに加わるように私たちの働きかけが呼び掛けられています。そのため私たちは豊かさを求めている世界の人々の声に耳を傾けて、彼らと一緒に活動しなければなりません。彼らは「 量」から「質」への転換を望み、ストレスのない、ゆとりと潤いのある生活を求めています。彼らは子供たちが育ちやすい豊かな環境、誰でも安心して暮らせる豊かな平和、皆が味わえる開かれた豊な文化などを訴えています。信者である私たちもこの訴えに共鳴し、市民運動などの方々と一緒になって協力できれば幸いです。またもちろん私たちは真の豊かさを約束してくれるイエスの声に耳を傾け、教会の活動を通して、日常生活を通して、良い羊飼いであるイエスの声を多くの人の心に響かせ、福音の知恵を分け合っていけるように神様の導きを願いたいと思います。
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