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マルコによる福音1:12∼15「シェガレ神父の説教」

B 四旬節第1主日 マルコ1,12-15
イエスの誘惑  2024 

 さっき朗読されたマルコ福音書の箇所はイエスの誘惑話の要約であると違い、マタイとルカの福音書は三つの誘惑を細かく語っています。この三つの誘惑は皆さんがご存じでしょう。一つ目は、サタンが登場して、イエスに神の子なら神から与えられた権能を利用して、石をパンに変えられたらどうだと誘惑します。二番目は、権力者は世界の国々を支配しているように、あなたも神から与えられた権力を持ってこの世を支配すればどうだという誘惑。三番目は神殿の上から皆の前で飛び降り、演じてみたらどうだという誘惑。この三つの誘惑は根本的に一つであって、神の力を悪用して、全能感の誘惑に還元されえます。現代私たちが受けている最も強い誘惑はそれに似ていて、富、権力、科学技術の偶像に委ねて、神と他人を必要とせずに生きるという誘惑です。 
 マルコ福音の箇所に戻るが、 “霊”がイエスを荒野に送り出し、イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられます。なぜ聖霊は敵であるサタンのいる荒野にイエスを送り出しているでしょうか。矛盾ではないでしょうか。しかし福音の荒れ野はサタンが誘惑する場だけではありません。何もない荒野は世間の雑音や邪魔のない神と出会える場です。また孤独と不安の闘いの場で、人間の成長につながる試しの場でもあります。試しと誘惑は同じことではありません。実は私たちの人生は試練の繰り返しで、緒悪との戦いです。しかしサタンは戦わなくてもいいよ、楽な人生を選べばどうだと私たちを誘惑しています。主の祈りには「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください」、と祈るが、この悪はサタンの誘惑、つまり楽な生き方の提案(誘い)と全能感の幻想(惑わし)の働きかけです。
 マルコの福音によると荒れ野の誘惑に打ち勝った後にイエスは「野獣と一緒におられて、天使たちが仕えていた」と記されています。この節の背景に旧約聖書のイザヤ書11章の平和のイメージがあります。「狼は小羊と共に宿り、子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。乳飲み子は毒蛇の穴に、幼子は蝮の巣に手を入れる。国々は共存を求めて集う。」イエスは全能感の幻想を捨てて悪魔の誘惑を退けたおかげで、野獣はもはや害をしなくなり、天使はイエスに仕えて、人類に平和共存のめぐみが約束されるということです。世界の人々はイエスのように傲慢や貪欲の誘惑に打ち勝つことができれば、真の平和が地球の上に実現できるわけです。
 誘惑の話の後にイエスは霊に満たされて、宣教活動を開始します。イエスの最初の宣教の言葉は「悔い改めて福音を信じなさい」という宣言です。この言葉はギリシャ語で「メタノイア」の訳で、過去の後悔だけではなく、むしろ、未来の方向に心の向きを変えていくことです。この言葉は四旬節の時期にピッタリする表現です。わたしたちの心と生き方がどこに向けているか、何をしたら神の方向に心の向きを変えられるか、これは四旬節の時期に私たちに与えられた反省です。

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