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ルカ3:10∼18シェガレ神父の説教

待降節第3主日C年 ルカ3,10−18 
どうすればいいか 前橋 2024

 2000年前にヨルダン川のほとりで洗礼を授けていたヨハネのところに多くの人が集まってきました。「群衆」、「徴税人」と「兵士」のグループが現れています。群衆は多分一般な人で、生活に困っていないが、心が満たされてない人たちです。彼らは「私たちはどうすればよいのですか」とヨハネに質問します。ヨハネの答えは非常に具体的です。あなた方は二枚の上着があれば、持っていない人に分け合い、食べ物が余っていれば、空腹である人に食べ物を分けなさいと勧め、そうすれば幸せになると言いたいのでしょう。次に税を徴収している徴税人がやってきます。彼らは人を騙したり、暴力を振るったりして皆に嫌われて、ザアカイのように生活の矛盾を感じて、一種の罪悪感を持ち、心の中で仕事を変えたいと思っていたかもしれません。だが生き残るために今の仕事をやめるわけにはいけないので悩んでいます。かれらも「私たちはどうしたらいいか」とヨハネのところに来て質問します。最後に兵士たちが出てきます。彼らが国を守る使命があるが、ローマ占領軍と協力していて、武器を持って、反政府のデモを鎮圧したり、拷問をかけたりして、良心の呵責に悩んでいました。この仕事をやめなければ救われないと思っていた彼らも一体私たちはどうすればよいかとヨハネに尋ねます。
群衆への勧めと同様、徴税人と兵士の人々の質問に対して洗礼者ヨハネの答えは抽象的ではなく極めて具体的です。ヨハネは徴税人に人を騙すことと規定以上のものを取り立てるのをやめなさいと言い、兵士たちに、与えられた権限を悪用せず、暴力を振るうことをやめなさいと言います。しかし洗礼者ヨハネは彼らに仕事をやめなさいと言ってないのは意味深いことです。彼は質問した人々に、職場に留まり、現実から逃げずに、仲間と一緒に問題の解決を一緒に考えなさいと勧めていたかもしれません。
2000年経った現在、競争社会が現れて、仕事に対する疑問を抱いて生きている人が多いでしょう。彼らはもっと人のために役に立つ仕事がしたいかもしれません。しかし職場との契約があるかぎり、上長の命令と会社の方針に賛成すべきであり、仕事をやめるわけにはいけません。
 会社や企業のやり方に抗議すれば解雇され、家族を養えなくなるので、職場内の不正をしていても黙ってしまいます。こうして巻き込まれた人は、たくさんいて、彼らはどうしたらいいかと思い悩んでいます。教会の扉を叩いて答えを求める人がいるかもしれないが、しかしどれほど今の教会は人々の悩みに具体的に答え応えられているかは疑問です。
 一方教会はヨハネのように、社会的な教えに基づき、道をまっすぐにし、正義の声を上げるように私たちに呼びかけています。サラリーマンだったら会社内の不正や差別行為に気づいた時に、黙認しないで、声をあげなさい。個人で何も言えないなら、仲間と悩みを分かち合いなさいと教会は言うが果たして理解してもらえるか。
ヨハネは言いたいことが言える人で、不正に対して黙らず、具体的な答えを出し、回心を呼びかけ、水による清めの洗礼を行っていました。しかし彼の教えには限界もあったでしょう。自分の限界を知った彼は「私の後に聖霊によってあなた方の心を変えていく方が来る」ことを予告し、現れてきたイエスを指で指し示しながら「この方こそあなた方をこころの隅々まで綺麗にして、心を変えていく力があると」と言います。
洗礼者ヨハネは徐々に表から退き、自分の弟子をイエスに従わせるが、その後に殉教します。ところがヨハネから水の洗礼を受けたイエスは自分に従う人に洗礼を授けることは一度もありません。イエスのミッションはヨハネと違って、罪人と扱われていた人々の家に入り、ともに食卓につき、福音のよき知らせを伝え、弱者に希望を与えることです。しかし復活の後、お別れの場で、イエスは弟子たちに「全ての人に父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言葉を残しています。イエスの言ったこの洗礼はヨハネの水による清めの洗礼ではなく、人を勇気づける聖霊による洗礼です。今日待降節に入っている私たちは神の息吹である聖霊を受け、愛と希望を持って全世界の人々に和解と平和の福音を伝えることができれば幸いです。

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