英語のジレンマ

以前にも書いたことがありますが、英語は他の言語の学習と比べて厄介なところがあります。

それは、「国際語」であるがために、いくらネイティブの表現や発音を学んだところで、英語を使って話す相手の大部分はノンネイティブである、ということです。

話し相手が分からない表現をこちらが使ったところで、誰も拾ってくれないので、コミュニケーションが成立しなくなってしまいます。

結果、お互いが理解できる語彙や表現を使うことになり、多少の文法ミスや表現の不自然さは見逃さざるを得なくなります。

本当はどの言語においても、こういうことは起こり得るのですが、特に英語についてはこういうことが起こりがちです。

「ネイティブなら何となくでもこちらの言いたいことが分かってくれる」というのが語学学習で感じるネイティブの有難さですが、相手もノンネイティブだとその前提が崩れてしまいます。

これが英語の宿命。

しかも、いくら英語の堪能なノンネイティブであっても、その裏にある思考回路や論理の組み立て方は、やはり母語の影響を大いに受けているので、「単語一つひとつは分かるのに、全体として何を言っているか分からない」ということがしばしばあります。

これは日本人に限らず、どの母語話者であってもそうではないかと思います。

例えば、ある日本人が英語で言っていることが周りに理解されないのに、あるドイツ人の言っていることは理解されるとします。

もしそこにいる人の大半がヨーロッパの言語を母語にする人であれば、その日本人の表現力や語彙力が問題なのではなく、ドイツ人のロジックが単にそこに居合わせた人たちの母語のロジックと似ていたから、ドイツ人の英語の方が理解された、というだけかもしれません。

日本人の話す英語って、どんなに拙くとも、日本人同士なら理解できますよね? あれは、発音以外にも、共通の文化や、話の運び方の暗黙のルールなど、話し手と聞き手で共有していることが多いからだと思います。

英語の例ではなく恐縮ですが、昔、ベルリンで行われた、北米、ヨーロッパ、アジアから参加者が集まった研修に出席したことがあります。

そこで、韓国からの出席者の話したドイツ語が、日本人の僕は理解できたけれども、欧米からの参加者には理解されなかったことがありました。

欧米からの参加者は僕よりもずっとドイツ語が出来ました。原因は、韓国からの参加者のドイツ語のロジックが、韓国語のそれであったため、韓国語と似たロジックを持つ日本語を母語とする僕には理解しやすかったからだと思います。

その研修での共通言語はドイツ語でした。国際会議で使われる英語のような役割を、ドイツ語はその研修中に果たしていたわけです。

ドイツ語も、移民同士の会話のように、ノンネイティブ同士で使われる状況はなくはないですが、英語ほどではありません。多くの会話は、ネイティブとの間で行われます。

これが英語ではそうはいきません。

英語の場合は、「スタンダードじゃない英語」を理解する必要があり、その数はまさに無数にあるので、いちいち慣れていくにもとても骨が折れるのです。

「スタンダードじゃない英語」と言っても、インドの英語のことかとか、オーストラリア英語はスタンダードじゃないのかとか、そういう話の次元を超えています。

ネイティブの訛りも「非スタンダード」と言うことはできますが、世界にはもっと多くの、ノンネイティブたちが話す様々な英語があります。それは、和製英語と言ったそういう話ではなく、流暢に話す人たちの中にも存在する「非スタンダード」です。

そのため、英語の勉強をしていてよく思います。

BBCやABCだけ見ていて果たして意味があるのか?
英語ネイティブが書いた著作だけ読んでいて果たして意味があるのか?

もっと言えば、

「ネイティブらしさ」を目指すことに果たして意味があるのか?と。

ドイツ語や韓国語ならまだ良いんです。

でも、英語で「ネイティブらしさ」を目指すって、どうなんだろう。

こちらが仮に「英語らしい論理」で話せたり書いたりできたとしても、受け手が「英語の論理を理解するアンテナ」を持っていなければ、こっちの意図したとおりには受け取ってもらえないわけです。

さあ、どうしたものか。

英語学習の悩み、ここに極まれり。

結局、従来通り、ネイティブ向けの本や動画を見ている僕ですが、「でも結局英語ってネイティブよりもノンネイティブと話す機会の方が多いのに、何やってんだろうなあ……」というモヤモヤは尽きません。

長くなりました。




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