生きている、ということ。

生まれてきてしまった以上、ぶっちゃけ考えても無駄な事、というのは色々あって、例えば、なぜ生まれてきたんだろう、とかこの世界で成功したからと言っても結局いつかは死んでしまうのに、それでも何か残したいと化学のはなぜ?とか、死んだあと、何も残らないのに、どうしていろんなものを欲しがったり、作ったりするんだろう、とか。

時々、そんな答えのない問いが浮かんできて、立ち止まってしまうことがある。

結局、全部無駄になることはわかっているのに、どうしてもあがいてしまうのが生きているということで、全部暇つぶしだとわかっていてもそれをやってしまうのが生きているということなのかもしれない。

なぜ、生まれてきたのか、という問いの答えでは全くないのに、暇つぶしで死ぬまでいろいろやればいいというところでいつも落ち着くのは答えが出ないからかもしれない。

生まれてこなければよかった、という立場に立脚する半出生主義という考え方がある。去年、その立場に立っている子とずいぶん話したのでちょっとその気持ちが分からなくもないけど、生まれてきてしまった以上は、私は生きている方がいいと思っている。

それでも、時々は運命が違っていれば私はここにいなかった、その場合、ここに立つはずだった別の「私」は物事をどうとらえていただろうか?と考えたりもする。その方が幸せだったろうか?とも。

その「私」は私といってもきっと別人なんだろうな。

時々そんな風につらつら考えてしまうのだけど、今日は昼間、またそういう生きている意味とは、とか結局死ぬのに何でいろいろやるんだろう、とかっていうことを考えていた。

そこで、三浦春馬氏のニュースを聞いて、なんだか愕然としてしまった。

私よりもずっと若く、よい仕事をしていて、物腰も柔らかくて謙虚な人がどうして、と。さっきまで、生きる意味を考えていた私と、生きているこの世界を去ってしまったその人と。

いつだって、そうやってこの世界を去ってしまおうと思っているのに、まだここにいる私と去ってしまう人との違いは何だろう。何が、彼をすべて捨て去らせたのだろう。私が持つくびきを彼は持たなかったのか。

とても寂しい気持ちになって、去年、生まれてきたくなかった、と言っていた彼は元気だろうか、少しは生きていることについて、楽しいいい気持ちを味わってくれているだろうか。と思った。

楽しいから、いい気持ちだから、生きているのではないのだという。生まれた以上、必ず悲しみや苦しみがある、それを味わいたくなかったから生んでほしくなかったという。生むのは生む側のエゴだ、と。

でも、そういう彼だって、楽しい時間があり、喜びを感じる瞬間はあり、たとえ産み落とされたくなくても生まれてしまった以上は、その生を嬉しいことや楽しいことで埋めて最期の時を迎えた方がいいと思うのだけど、これもまたエゴだといわれてしまうだろうか。

三浦氏は、最後に何を思っただろうか。さみしい、悲しい気持ちでこの世界にいとまを告げたのなら、あまりにも辛い。まだ生きていてほしかった。

すごいファンだったわけではないし、彼が出ている番組も全部見ていたわけではないけれど、見る限りの彼は物静かで謙虚で、変わった役も上手に演じるいい役者さんだったと思う。だからこそ、これからが楽しみだったのに、という残念な気持ちもある。

ここのところ、梅雨明けが近いはずなのにずいぶん寒く、天気が悪く、気が滅入る時期だから連れていかれてしまったのだろうなと思ったりするけど、どうか。そちらに引っ張られないで。と思う。

自分を立て直すために、温かい飲み物を用意して、何か美味しいものを食べようか。

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