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今年の夏はしんどかった気がする。

悪夢のようにいろんなものが終わり、整理をつけなくちゃと思って自分からも気持ちの整理をつけて終わらせることにし、そのせいか微妙な体調不良に悩まされ続け、死について考えていた。

例えば、最近ならとしまえん。思い出すのは初めての彼氏といったデート。あの頃は、遠出をするのが怖くて一人では出歩けない時期だったから、彼が手を引いていろいろなところに連れて行ってくれたのはうれしかった。彼のそばなら安心できた。

観覧車はなくなっていたけど、ぴったり体を寄せて乗るのが恥ずかしくて乗れなかった二人乗りのイーグルは一人で乗って空の高さを楽しんだ。

子どもっぽくて、おおっぴらに好き、と言いづらかったメリーゴーランドは機械遺産になって人気が出ていて、だいぶ並んで乗り、別れを惜しんだ。

あのデートの後、としまえんは来ていなかったように思う。だからとしまえんは、彼を思い出す大事な場所、おいそれを足を踏み入れられない場所にいつの間にかなっていた気がする。

もう、あの遊園地には二度と行けないのだ。さよなら、寂しいけどさよなら。

そう、最初の彼氏は、30年近く私の心の一番底で静かに私を受け止めていて、いつでも彼の手を放してしまったことを後悔していた。

ちゃんと、気持ちを全部、別れる前に伝えるべきだった、別れた後では遅かった。もう素直に彼の顔を見れなくなっていた。

どうして、距離を置こうとしたのか。進学で違う学校に行くと決まっていて、毎日彼が手を引いてくれていたから、何かあれば彼の手を探してつかめば安心できたからどうにか生きていられたのに、離れてしまって、私は生きていけるのだろうかとずっと不安だった。

でも、彼の手の温かさを知っている。離れていても、彼とはつながっている。違う毎日を送っても、休みの日に会ったりして、離れた時間を埋められる、と思ったからあなたがいなくても大丈夫と思う、などと言ってしまったのだ。そりゃ、誤解される。生きていけないレベルときっと彼は思ってなかった。

そうして、別れたいといわれ、そういわれたのならしがみつくわけにもいかないと思い、素直に了承し、静かに泣き続け、手紙を書き、うつむいて暮らすことにし、彼の顔を見れなくなった。

そうして、彼に会っても話もできず、そのうち結婚したと聞き、どうにもならない思いはずっと封印されて、多分一歩も動けないまま、こんな年になってしまった。

好きな人はその後もいたし、やっと忘れられたのでは、と思う瞬間もあったけど、失恋のたび、誰も好きでない時間が訪れるたび、彼のことが頭をもたげて、いつまでも忘れ難く、きっと死ぬまで忘れないだろうと思うほどで。

きちんと会って話せば終わることなのかもしれないけれど、でもこの夏はこの気持ちにけりをつけようと、彼の思い出をもう一度眺め渡し、終わらせられるなら終わらせようとしていた。それはなかなかに苦しく、だからか、彼とのデートの思い出の一つである江の島に行った後は少し体調を崩した。

体調を崩しがちだったのも、今年はつらかった。生理で妙に具合が悪い日が続く、先日3年以内に死ぬだろう、と予感したというくらい、内臓の調子が悪かった(幸い、大きな病気ではなかった)。虫刺されはひどく掻き壊してしまい、悪い虫がいるのではとおびえ、明かりをつけたまま寝る日が何日も続いた。そのあとは何に反応したのかわからないじんましんが出て、呼吸が苦しくなったらすぐ救急車を呼んでください、とアレルギーの疑いで先生に言われ、ほんの少しののどの違和感も不安になり、なんだかいつも疲れていた。

楽しく過ごそうとしていた日もあるし、楽しく過ぎた一日もあったけど、他にもハロウィンで衣装を買うのを楽しみにしていたclear'sが8月末で閉店したり、よく遊びに行って知り合いの顔を見てほっとしていたライブハウスGOODMANが閉店したり(こちらは復活の兆しが出てきたのでほっとしたけど)やはり今年の状況ではきらきらとした小さい大事なもの、という認識のものなど、ずいぶん零れ落ちてなくなっていく感覚があって切ない。

私の中で、最初の彼の呪縛ともいえる思いの強さから少し距離を置けるようになった、魔法のような音楽をくれたバンプオブチキンの藤原さんが結婚しました、という報告をラジオでリアルタイムで聞いたのも、だいぶ衝撃的で。

ああ、間に合わなかった、という気持ちになった、もちろん、おめでとうと思うし幸せな日々を!と思う気持ちもあるけど、なぜだか置いて行かれたような、もっと早く出会いたかったのにな、というような、なぜだかの手遅れ感にどうにも泣きたくなって。

彼のその、潔さは彼らしいと思うし、そういうところがすごくいいとも思う。そして、私は別に藤原さんとどうこうなりたかった、という思いはない(でも友達になりたいと思うし、仕事を一緒にしてみたい、彼らの作る世界を私も一緒に作ってみたい、という作家としての大いなる憧れはあるから、もっと頑張らなくちゃ、と気合を入れ直してもいる)でも、「誰のものでもない、私の、”藤原さん”」はもういないのだ、というのが何だか切なくなる。あまりにエゴイスティックで申し訳ない気持ちもあるけど、多分、置いていかれた気持ち、というのはそれだろう。

だからこそ、色んな事が終わり、終わらせ、決別し、ちゃんと一人で歩いていかなければいけないのだ、とぼんやりと考えて、途方に暮れて立ち尽くしている。全然歩けてない。

それでも、手放さざるを得なかったたくさんのものはなくならないだろうし、もぎ取られてしまったとしても、空いた隙間を何かが埋めるのだ。

少なくとも、衝撃を受け、悲しみに立ち尽くし、泣いている意味も忘れるほど心が痛むことがあった後は、確実に作品のレベルが上がる。

いつまでだって、レベルが上がるほど、まだまだ道半ばではあるけど、それでも私はやっぱり星を目指し、二本の足で歩くしかないから、高く飛べるよう今は必死で歩こうと思う。

いつ死んでもいいように。多分、身の回りの後始末が面倒だ、と思うし、見られなかった景色を残念に思って悔しがるだろうけど、あまり死ぬ、ということについて恐怖を感じない位、疲れてしまっているけど、それでも生きている限りは歩けるところまで歩かなければ。

でも、いつか飛べる日がくればいい。

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