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"The Making of a Psychotherapist"を読む

 まだまだシミントンを読む。彼のセラピー感覚を掴んでおきたい。"The Making of a Psychotherapist"である。同書は1996年にカルナック社から上梓された。僕の本棚にあったのはハードカバーだったが、ソフトカバーも1997年に出ている模様。現在はラウトレッジ社から購入することが可能だ。邦訳はされていない。地味になかなか日本語に移しにくいタイトル——『心理療法家の成り立ち』とかか——である。

 序文はアントン・オブホルツァー。「免許付きの愚かさlicensed stupidity」で知られる精神分析組織論の大家である。オブホルツァーは金剛出版から『組織のストレスとコンサルテーション』という本が出ている。コンサルテーション関連の仕事に携わる臨床家は必読の本だ。

 さて、そろそろ本文に入ってゆこう。『精神分析とスピリチュアリティ』でも示されていたが、シミントンは「精神分析」と「心理療法」を峻別する立場に立つ。「自分自身のこころを理解することが精神分析の目的である一方で、心理療法の目的は情動的な癒しである。情動的な癒しは、精神分析で得られる自己理解の果実のひとつであるのは間違いないが、それ自体を目的とはしていない」(p. xvi)。
 精神力動的心理療法は精神分析とは完全に異なる、とも指摘されている。シミントンは、IPAが政治的・商業的な意図から精神分析と心理療法を混同させるような混乱をもたらしているとして苦言も呈している。「心理療法を望む患者と精神分析を望む患者を区別するための診断基準が早急に求められる」(p. xvii)。ともあれ、本書は心理療法を取り上げているとのこと。なお、ここで指されている心理療法とは、どうも「精神分析的な」心理療法であるように読める。
 例によって、第1章から順に要約はしない。僕の関心に従って分解し再構築しながら、シミントンの分析セラピー観を紐解いてみたい。

雑駁に言ってしまうと、2つの様式で人間を心理的に考えることが可能である。社会環境からの作用を受ける存在として、または、その環境に反応してその環境を形作る存在として、である。心理療法の場合、このどちらかに偏ってしまうのは間違いである。

(p. 97)

 シミントンによると、治癒には2種類ある。「理解による治癒Cure through Understanding」と「智識による治癒Cure through Knowledge」だ。 前者は前提として欠かせないが、後者が伴わないと真のパーソナリティ変化は起こらない。共感的な理解や理知的な理解がどれほど積み重なったところで、それは「上べだけの治癒counterfeit cure」に終わる。
 成熟した人間は「批判に耐える能力capacity to bear criticism」と「対立をこなす能力capacity to manage confrontation」を備えており、〈他者Other〉との出会いに開かれている。フロムやフェアベアンの描き出した未熟な人間は近親姦的で幼児的な依存状態にある。「理解」にのみ努める心理療法では、患者が心理療法家に依存先を移しただけであり、真の自己決定に至ることができない、とシミントンは喝破する。彼も評価するヴィクトール・フランクルと近い香りがするな。

パーソナリティの永続する構造的変化は、患者自身が行為に移したときにのみ起こる。私が意味する〈行為action〉とは、当人が内側からのナルシシズム的充当によって彩られた錯覚対象ではなく、現実対象との関係を自らにもたらすような、内なる心的作用inner psychic actionである。

(p. 106)

 「共感empathy」による理解を提供されると、患者は温かな感覚に包まれ、安心感を覚える。一見すると良質なセラピーである。しかし、それは仮初の錯覚であり、患者は治療者に依存しているに過ぎない。シミントンはこのような例として、フランツ・アレキサンダーの「修正情動体験corrective emotional experience」やハインツ・コフートの「自己心理学self psychology」を取り上げて批判する。「……誘惑性seductivenessの一要素とは、ある当事者が別の当事者と手を組み、第三者に対して対抗することである」(p. 115)が、アレキサンダーにせよ、コフートにせよ、真の情緒的成長に触れない共謀関係が築かれることになる。

もっとも露骨な帰結として、心理療法家は〈自分は救済者や神である〉や〈自分の共感的理解によって患者は癒される〉と信じることになる。この帰結は、患者の情緒的環境にいる周囲——両親、兄弟、姉妹、配偶者、子ども——が全員「悪者」であるという捉え方と明らかに相関関係にある。これこそが、患者自身のパラノイド的世界観(「私のすべての不幸は私がされてきたことのせい」)を是認して支持しがちな心理療法の一形態なのである。

(pp. xv-xvi)

 「理解understanding」と「智識knowledge」、どちらも大事である。また先に述べた、人間は社会や環境に作用actされる存在でありながら、そこに能動的に反応reactできる存在であるという視座も大事である。シミントンは、理解や環境因を重視する立場を「医療的立場medical position」(ウィニコットが代表格)、智識や個体因を重視する立場を「道徳的立場moral position」(ユング、フェアべアン、クライン、トーマス・サースら)として区別する。そして、どちらも間違った見解に立っていると指摘する。やはり、シミントンの立場は「実存的」なものに近い。つまり、環境や状況や生育歴という動かしようもない事実や現実をどのように引き受けて、主体として選択と行為を決断してゆくのか、という立場だ。
 彼は自身の分析家であるジョン・クラウバーの見解を引きつつ、精神分析は常にトラウマ的な作用をもたらすと語る。心理療法も人生を賭けた大事業であるし、そうである事実を看過してはいけない。

精神力動論の原則に基づく治療の開始はひとつの危機である——私は危機であるべきだと言っているのではなく、危機であると述べている。私の経験では、心理療法家や分析家はこの点をあまり認識していない。極度の恐ろしいことだから、そのように認識しないように自己防衛しているのである。

(p. 108)

 このようなスタンスであるからこそ、コフートのような共感に終始する姿勢(これにはシミントンの誤解がいくぶん入っている気もするが)に我慢ならないらしい。その批判の根拠の「ひとつは、コフートが自分の立場をラディカルに考え抜いたのではなく、人情溢れる態度を、自分が激しく攻撃しているハルトマンの自我心理学にくっつけただけという点である。……もうひとつの方向性は、コフートが人間の内なる心的行為についてなにも説明していないというものである。そのため、彼の強調点はすべて、環境を形作ることでにあり、その裏側を軽視してきた」(p. 98)。彼はコフートの見解がジョン・ワトソンやバラス・スキナーらの行動主義となんら変わるところがないと容赦ない。
 「万能感によって、こころのプロセスとこころの対象は破壊されてしまう」(p. 175)にもかかわらず、コフートは万能感を一定期間体験しておくことがパーソナリティの基礎として重要であるいう。こころは活動の源泉であるが、コフートの描きだすこころは反応するだけの実体である。
 コフートの治療論では、患者はかつての共感不全を治療関係上の至適な欲求挫折を通じて修復してゆく必要がある。治療者は患者を映し返す鏡として機能し、傷つきで誇大化した自己を健全で適度な自信に置き換えてゆく。コフートが描く治療関係では、治療者は患者の(健全な)ナルシシズム的延長として、自己対象として体験される。しかし、シミントンの理解では、治療者が自身の行為の自由を失うような治療関係は有効たりえない。

フェアべアン(Fairbairn 1958)に従い、私は〈情緒的接触こそ、人びとがもっとも深く切望するものであり、人生を根本的に意味づけるものである〉と述べたい。……しかしながら、そのような接触は、他人の本当の自己から発せられる信号によってのみ効果的に取りもたれる。したがって、効果的な解釈は心理療法家の本当の自己から発せられるものだけであると私は主張する。

(p. 11)

 さて、2人の人間が物理的空間をともにすると、両者には「気持ちのコミュニケーション」が生起する。両者の「情動行為emotional action」が行き交い、それは「内なる心的登録inner psychic registration」としてそれぞれのこころに刻まれる。「私はさらに、この感覚登録は個人の内なる心的活動にも及ぶと仮定する——それは、自分のこころの奥底にある思考でさえも、他人のこころのなかに登録されるということである」(p. 25)。情動の結果、意識的・無意識的に「感情feeling」が体験されることになる。換言すると「無意識的所有unconscious possession」という形で、さまざまな智識が意識されずに保管されているという仮説も生まれる。シミントンは、明確な形をもつ気持ちを「感情」と呼び、無意識的で明確な形を帯びていない気持ちを「原感情proto-feeling」と呼ぶ。
 彼は「信じる者」と「信じない者」に分かれると言いつつ、同じような情動現象として「投影同一化projective identification」に触れる。「投影同一化はひとつの理論ではなく、ひとつの情動現象なのである」(p. 56)。しかし、それは創造性を阻害する現象である。治療者はこの非言語的な情動圧力を言語的コミュニケーションとして成立するように名づけてゆく必要がある。ここに、治療者に「勇気courage」が求められる。
 これらの仮定は、当然、転移や逆転移という概念と地続きである。原感情は、さながら溶解中の金属のようなものであり、さまざまな場面や人間を鋳型として表現される。一定の形がそこでもたらされ、初めて原感情は感情に変形する。これが転移や逆転移と結びつくわけだ。 

転移とは、精神分析家がパーソナリティの内なる構造を探査するために使う道具である。転移は、患者が分析家に対してとる関わり方の情動構造を意味し、分析家がパーソナリティの内なる構造を研究するために用いる道具である。このような用法は、患者と分析家の関係の構造が、内的世界における自己のさまざまな部分の関係を反映していると主張する場合にのみ意味が通る。

(pp. 116-117)

「情動変化は、転移と関わる解釈を介してのみ起こる。この言動は、ほかの解釈には価値がないという意味ではない。とはいえ、心理療法家と患者のあいだの直接的な気持ち、およびその解釈と実演においてこそ、情動変化がもたらされるのである」(p. 95)と言って憚らない。「人は自分が向けられている気持ちについて話を持ち出すことが難しい」ため、「患者だけでなく心理療法家もそれを避けようとする」(p. 74)。
 シミントンは性愛化転移や転移性恋愛を例に取り、治療者の多くが自身の無邪気な言動や介入が患者に与える影響にどれほど無自覚であるかを指摘する。また、陰性転移を取り上げずに表面的に首尾よく治療が進んでいるように演出する問題点にも触れ「……心理療法家は陰性イマーゴを受け取る必要があるが、しかしそれは永遠にそうするのか? 私の経験によると、患者は次に進む準備ができたら、なにかしらのサインを示す。そうすれば……患者がこのイメージにしがみついている点を示すことができる」(p. 86)という。なお、シミントンは、陰性転移を解釈してはならない場合があるという。どのような事例なのか。それは本書を読んで確認してほしい。
 このような作業に欠かせないのが逆転移の認識である。

一心理療法家に適用される「逆転移」という言葉を使う場合、当人の知覚や精神装置のある側面が機能していないことを意味している——私なりにこの用語を定義すれば、心理療法家の機能する自我が解釈を呼び起こすことができないような状況としたい。この現象状態は2つに分類できる。第1の型は、心理療法家がその気持ちに気づいているが、それを理解することができず、したがって解釈を練り上げることができない場合である。これを〈第一式〉逆転移と呼ぶことにする。第2の型は、心理療法家が気持ちに気づかず、その代わりになにかを実演している場合である。これを〈第二式〉逆転移と呼ぶことにする。

(p. 88)

 シミントンの理解では第一式逆転移は穏当で良性の場合が多いが、第二式逆転移は凶暴で劇しい場合が多い。心理療法家たるもの、後者を可能なかぎり回避するように努めなければならないが、なかなかそうもいかない。「私の分析家としての経験によると、患者が治療を求めるのは、自らのうちに強力な力があり、成長に向けた情緒的努力の兆しを圧殺している点を半ば自覚しているためだ。患者が分析家のところに来るのは、この内なる第五のコラムニスト〔組織内の裏切り者という意〕と闘うための助けを得るためなのである」(p. 70)。
 この内なる妨害者と闘うために、治療者と患者が手を取り合えることができれば話はスムーズだが、往々にしてそうはいかない。知らず知らずのうちに、すでに自尊心が打ち砕かれている患者に引っ張られ、治療者も自尊心を低下させ、両者は偽りの解決策や表面的な談話に終始するようになる。共謀関係が結ばれてしまうのだ。ここを打破できるかどうか、第三項としての治療「プロセス」を信用できるかどうかが分かれ目となる。ここのあたりの作業に必要なのは、治療者の「想像力imagination」や「好奇心curiosity」であるという。
 ところが、このような治療営為をもっとも挫くのが「ナルシシズム」を抱えた人びとであるのだ。いよいよ、シミントンの本領発揮である。本書では、彼を一躍有名にした「ライフギバーlifegiver」という用語がまったく登場しない。この用語はすでに役目を終えたらしい。日本でいまだにこの用語でもってシミントンを解説している人は、知識が1993年でストップしているとみて間違いない。
 本書では、ナルシシズムの構造的理解や現象上の把握ではなく、ナルシシズムに特徴的な行為様式に目を移している。それが「擬態mimesis」である。シミントンは、ナルシシストの臨床上の難しさを捉えるなかで、この概念が有用であると気がついたらしい。擬態の目的は欺瞞にある。

……患者の自己は不和と崩壊の状態にある。これは、協調的な行為が不可能であることを意味する。恥は、この内的不和の情動登録である……。私は恥から、この内的不和を推測する。擬態的な推進力とは、患者の自我がそれ自体では行為の源となりえないために、他人の内側で生きなければならないことを意味する。

(p. 123)

……外面上顕れるものは、自己の内なる状態を象徴している。したがって、自己の創造的な個別の部分は、残酷で野蛮な別の部分に隷属している。擬態転移では、分析家の情動的態度に擬態する自己の顕在部分は、全力で隠れようとする野蛮な暴君の奴隷となっている部分である。 この隠された暴君が、自己の行為主体的部分を所有している。パーソナリティはこの自己の部分を必要としているが、それを白日の下に晒すことに大きく抵抗する。けれども、それが白日の下に晒されたならば、当人は大きな恩恵を受ける。

(pp. 124-125)

 擬態する背景には、極度に脆弱なこころがあり、それは自由になる瞬間を回避しつづけているという。治療関係上、一見するとうまく進んでいるような印象させ治療者は受けるが、実際、患者は擬態を施しているに過ぎない。治療者の発言を消化することなく繰り返して理解するフリをしたり——治療者の情動的態度とのズレを感じて不安を覚えたくないゆえの「純粋性の欠如absence of genuineness」。
 セラピストや分析家の治療理想や分析的理想にすら融合しようとするため、この種の擬態患者を見抜くのは至難の業である。「そのような患者は、定義上、教授不能な技法を分析家に要求すると思われる。この種の防衛を弱める技法は、自己知のための内なる探求しかない」(p. 119)。表面的には社会的な成功を収めている場合も多いため、治療者は細心の注意でもって、セッションの内外で示される行動化から(ときに微かな)敵意をキャッチするしかないのである。

私自身の信念は、永続的な癒しとは、内なる創造的な情動行為の産物であるということだ。この行為は本質的に自由であり、したがって患者に押しつけることはできない。

(p. xvi)

 シミントンによれば、治療者が患者の視点に立って物事を考えたり感じたりするのは大事であるが、それだけでは不十分である。治療者という〈他者〉の体験が患者にもたらされないと真の進展は生じない。進展を妨げる要素として、彼は「憤怒rage」や「貪欲greed」などの問題も取り上げるが、これらは、治療者の他者性を損壊する影響を与えるもので、それぞれ興味深いのだが、紙幅の関係上、割愛する。
 さて、このようにシミントンの治療観を概観してきたわけだが、やはり根底には宗教やスピリチュアリティや実存的姿勢が垣間見れる。キルケゴールとか特に関係する思想家であろう。シミントンは本書の最後のほうで「良心conscience」の問題を取り上げている。ハイデガーは、本来性を取り戻す方途として「良心の呼び声Stimme des Gewissens」を挙げている。シミントンは「患者が良心に従うと、その自我は強化される」(p. 179)という。これは言い換えると、「患者が情動的に関わっている人たちに外的悪影響を及ぼしている患者自身の内なる情動生活における特定の〔心的〕行為」(ibid.)に従うことを意味する。

良心が意識的に機能するのか無意識的に機能するのかは、そのときどきのパーソナリティの統合の度合いに左右される。良心が意識的に機能するには、パーソナリティが一定の統合を達成している必要がある。そうでなければ、良心は破壊され、激しい超自我が取って代わる。……良心の確立は自己の統合と一致し、それは良心が自覚的になることと一致する。

(p. 183)

 「「良心の呼び声Voice of Conscience」とは、自己の統合された部分が、統合されていない部分の行為に語りかける言葉である」(p. 184)。個々人が自身の内部に道徳的行為の指針をもっている。この内なる行為原理こそが良心である。人びとが自身の内なる〈他者〉たる良心に従うたびに統合されてゆくが、過酷な超自我に従うとどんどん創造性が貧しくなる。このあたりの機微や内実は『精神分析とスピリチュアリティ』とも重なる。
 以上、同書からシミントンの心理療法の見方を抽出してみた。ちょっと説教くさいところもあるが、彼がずっと自説を修正してゆく姿勢は見習いたい。

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