"Free Association"を読む
引き続き、ボラスを読み進める。ボラスはともかく「自由連想」を重視する。そういえば、と思い出したように、本棚から引っ張り出したのが本書"Free Association"である。そのままの書名だが、ボラスの自由連想観が簡潔にまとめられている小ぶりな本である。アイコン社から2002年に刊行されたが、どうも絶版であるらしい。残念である。早速、内容に入ってみよう。
フロイトは自由連想というものを患者に指し示す際、喩え——列車trainに乗って、座席のそばの窓に流れるさまざまな景色を言葉にそのままに言葉にしてほしい——を用いた。フロイトの記念碑的著作『夢解釈』の主題である夢が「視覚」や「イメージ」と結びついているように、自由連想で用いられる喩えでも視覚像が景色として伏在している。芸術に関心が高かったフロイトだが、音楽に対しては手厳しい評価を下していた。どうもフロイトは視覚人間なのかもしれない。
さて、ボラスによると「自由連想という方法は「思考の流れtrain of thought」を明らかにするために案出された。ひたすら自由に話すだけで、どんな人でも、一見すると切れ切れに見える着想をつなぐ隠された論理によってつながった思考回路——〈他〉の思考回路——を明らかにすることができる」(p. 5)。
自由連想法では、恥ずかしいことや後ろめたいことでも話さなければならない。しかし、もっと重要なのは一見すると「無関係な」ことも話すところにある。ボラスはこの点こそが実践上の重点であるという。
ところが、1950年代以降、自由連想は不可能な理想として据えられ、にわかに到達しがたい極地として考えられるようになった。ここでボラスは自由連想を「自由会話free talking」として再概念化する。自由会話とは「こころにあることを話すことであり、あるアジェンダに従わず、自由に動く順序で、ある話題から別の話題に移ること」(p. 9)である。これくらいの定義づけであれば、完全には無理でも、1セッションに1回くらいは自由連想が生じているのではないか、と彼は考えている。
ボラスは親しい友人関係を例に挙げ、お互いに打ち解けてリラックスしている関係性であれば、無意識的な相互影響に開かれているため、連想的に無意識的な思考の筋を両者が形成していると述べている。両者の「波長wavelength」が合うことが肝要なのである。
自由連想とは、精神分析セッションとは、無意識のコミュニケーションである。ゆえに、一義的に「適応」を指向する方向性は誤りに陥りやすい。ボラスは、「創造性creativity」の発露にこそ、自由連想の価値を置いている。それは一見すると無意味に映ることや無関係に思えることに、別の角度から意味を見出す営みである。これは自由連想する被分析者と平等に注意を漂わせている分析家というフロイトのペアが取り組む営みである。この際に、フロイト的(古典的=自我心理学的)な聴き方とクライン的(対象関係論的)な聴き方があるとボラスは指摘する。前者は沈黙を重視し意味が見出されるまで待つ姿勢をとりがちである。他方、後者は積極的に介入して意味を創り出そうとする態度を示しがちである。
自由連想は考えを「声に出す」ことで思わぬ発見をもたらす。分析家は「フロイトの鏡Freudian mirror」として、患者の連想の途切れや言い間違いや分析家自身が印象に残った語句を繰り返す。この「フロイトのこだまFreudian echo」という形をとって、分析家は患者の連想に一定の距離を保ちつつ、身を委ねることができるのである。分析家には「抑圧的」な無意識ではなく、「受容的」な無意識に身を任せる態度が求められる。
ボラスの理解では、自由連想は、ウィニコットのいう「本当の自己true self」の明確化を促進する。人間には自己の「イディオムidiom」を表現したいという欲求(「表象欲動representative drive」)があり、それが「自発的な身振りspontaneous gesture」としてそこここに現れてくる。日常生活ではどうしても人間は社会生活のなかで社交という形をとって周囲に迎合する。つまり、「偽りの自己false self」を発達させざるをえない。「フロイトのペアは、平均的に期待される迎合を一時停止させる」(p. 41)。
「自己を表象したいという欲望は、自己が良い対象を信じていることを前提とし、その対象は、自己が早期の乳児状態を母親に伝え、その母親がそのコミュニケーション内容を多少なりとも受け取り、変形させたことに基づいている」(p. 61)以上、自由連想という営みは必然的に早期母子関係を再現する。ここに早期の対象関係の劇化が生じたり、複数の自己が呼び覚まされたりする。「そのため、自由連想することによって、私たちはときにパーソナリティのさまざまな部分や機能のあいだで繰り広げられる激しい議論を解放し、さまざまな無意識的関心や葛藤に対する無意識の解決策を整理することに四苦八苦する」(p. 26)。ここには「性格/登場人物character」という、形式としての自己が表れる。
存外、人は自分の「性格」を知らない。知っているようで考えられていない(「未思考の知unthought known」)。「応用して音楽で喩えれば、性格とは、他者を楽器としてそのイディオムを奏でる自己の交響曲である、と言うこともできる」(p. 28)。ボラスは再三強調する。重要なのは「内容content」ではなく「形式form」なのだ、と。
そして、いつしか無秩序にさえ見えていた自由連想という膨大な無意識的なネットワークは、自らの組織立てに従って、ある種の収束を見せてゆく。このポイントをボラスは「心的類概念psychic genera」と呼ぶ。
ボラスは、ポンタリスなどの見解に同意し、夢と母体を結びつける。自由連想が展開する分析空間が母性秩序と結びつくのであれば、当然、その空間で夢がもつ意義は大きい。母性的人物としての分析家、母性的体験としての沈黙、母性的空間としての面接室。これらがありながらもなお、夢を言語で報告し、元々の豊かなイメージを破壊するように求めるという意味で、自由連想法は父性秩序とも結びつく。
小冊子ながら、大変濃密なボラスの思索がふんだんに散りばめられた好著だ。「そもそもなぜ(自由に)お話しすることfree talkingが治癒的なのか」という根幹の問題に取り組み、そのお話を治療者側の介入という視点ではなく、あくまで当事者の努力と成長という文脈に据えつづけるボラスの姿勢には賛辞を送りたい。とはいえ、一度読んだだけではなかなか理解できない。邦訳があれば良いのだが。
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