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"Catch Them Before They Fall"を読む

 「ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとうになりたいものといったらそれしかないね」——『ライ麦畑でつかまえて』。
 でも、今回はボラスの"Catch Them Before They Fall: The Psychoanalysis of Breakdown"を読む。副題からわかるように「破綻breakdown」に関する書籍だ。2013年にラウトレッジ社から刊行されており、創元社から出ている『太陽が破裂するとき:統合失調症の謎』の姉妹本である。『太陽』は翻訳も読みやすく、内容自体もわかりやすいのでおすすめである。
 一方、本書『落ちる前につかまえて』は、かなりチャレンジングな内容である。いわゆる精神病発症の最中に、非常に濃密な分析体験を供給することで回復を相当に援助できるという主張である。一日中セッションや、毎日(週5日ではなく週7日!)2セッションという、標準的な枠から極度に逸脱した設定をボラスは(数週間くらいだが)提供している。本書は、その内容をためらい交じりに開示し、いくぶんかの考察を添えて私たちに示してくれている。

さらに、本書は、高名なCBTやDBTという治療法に対する応酬として書かれたものである。CBTやDBTは、実際、患者が時間が限られた認知的な自主研究に注意を向けることで、内的生活を傍に追いやることを可能とする。親が幼児の泣き声を注意のそらし——「あぁ、あそこを見てごらん!」——で解決するのと同じように、このような介入は必要な危機を先延ばしにしたり、症状行動の深い機能を矮小化したりする可能性がある。

(p. 2)

 うーむ、あいかわらず、なかなか戦闘的だ、ボラスは。しかし、危機に必要も何もないだろう、と眉を顰める向きもあろう。破綻が必要であり、なんなら推奨され、場合によっては死それすらも称賛されかねない、そのような節が分析サークルにはたしかにある。その代表例がドナルド・ウィニコットである。ただ、ボラスは、ウィニコットと違い、破綻を悲劇と捉えている。

ウィニコットはやりすぎだと思います。よく、ウィニコットが患者をとても助けたという話を聞きますが、その患者たちとて、もともとまとまった人たちでした。そのために、ウィニコット的体験を潜り抜けて、よくなることができたのです。ところが、彼はそのために患者に破綻を勧め、場合によっては、たとえそれが事実上人生を破滅させることであったとしても、その人が自分自身の内なる現実の感覚を見出したことを、喜んで高貴なこととして捉えようとしていたのだと思います。まるで彼は、破綻を一種のロマンチックな牧歌的なものとして見ていたかのようです。……破綻は悲劇だと思います。でも、破綻が訪れるなら——それは必ず訪れるものであり、ウィニコットのように強制することはできませんが——それは変形可能なものです。分析家は、静かに、無意識のコミュニケーションを受け取る方法と、破綻の意味を分析する明晰なコメントで患者の言語や生い立ちに入り込む方法の両方を知っていなければならなりません。

(p. 127)

 ボラスは、本書で取り上げているような事態に遭遇するのは稀有なことであると但し書きをしつつ、このような破綻が精神病ではない人びとのあいだでも生じうることを指摘し、その点からして本書の内容が特定の狭い範囲の読者に向けられたものではない点を強調している。そして、ボラスは、ほかの同僚も緊急的に追加セッションを提供していることに触れ、多くの人たちが事が生じた後になってそうしているという。これでは手遅れなのである。破綻後、多くの人びとは孤独な期間を過ごし、精神病には陥らないものの「壊れていた自己broken selves」を形作る。これはスキゾイドや統合失調感情障害、慢性鬱病などとして現れうるもので「核心的な問題が顕在化していたにもかかわらず、効果的な治療を受けられなかった。私の見解では、これは大規模な悲劇であり、ほとんど認識されていないだけになおさらそうなのである」(p. 5)。

「壊れていた自己」というのは、特定の診断名を指しているわけでも、新しい病理分類を提案しているわけでもない。この言葉は、私たちが「正常」と呼ぶ人びとを含む、広範な人たちに適用することを意図している。この人たちに共通するのは、多くの場合は成人期早期に、適切な治療を受けられないままに放置され、破綻をきたしていた点である。幼少期の苦難や、自我や精神構造に内在する弱点が何であれ、この人びとの存在に顕著な傷跡を残しているのは、大人になってからのこの破綻なのである。

(p. 14)

 壊れていた自己の人たちは人生に無関心である。感情に乏しく、受動的で、諦念を抱え、対象世界から切り離されていて、死の欲動に同調している(が、羨望や破壊性や冷笑主義のような傾向は見られない)。大志を語ることはあっても、それに向けた行動には出ていないし、出ようとはしない。かつての健康だった自分にしがみついている。その健康だった自分はもういない「幽霊ghost」である。治療介入にほとんど反応せず、一切を排出するかのように物事を語る。
 他方で、治療や分析を求めてもいる。ボラスはこれを「来るべき破綻」への備えの欲求として理解している。人によっては「自閉的飛び地」「アスペルガー」「心的退避」というかもしれないが、その背景には人目に触れられなかった破綻があるのではないか、というのがボラスの見解だ。壊れていた自己を抱えている人たちは、一見すると表面的適応が可能である。しかし、ほんの些細なきっかけで一気に崩れてしまうことがある。「その出来事の無意識的な意味を分析することによってのみ、その有害な影響を理解することができる」(p. 15)。
 このような視点に立ち、ボラスは自身が提供してきた普通の精神分析を受ける被分析者を振り返る。思い起こせば、実は破綻の初期にいた人がいるのではないか、週末の休みがものすごく辛かったのに(余波が水曜日まで続くので「水曜日の被分析者」という)、ボラスが延長セッションを提供しなかったために、分析作業をいたずらに長いものにしてしまったのではないか。
 英国では、バリントやウィニコットらの伝統から「退行regression」を重視する流れがあり、R・D・レインやクーパーらの「キングスレイ・ホール」もその流れを汲んでいる(アーバース協会やフィラデルフィア協会など)。ボラスもこの流れを抑えつつ、自身の体験を本書で綴っているわけだ。

あなたが困難な局面を体験している点、私は承知しています。いまはあなたにとって大事な時期です。このような事態が発生した場合、私はどんな患者に対しても、起こっていることを処理する時間を供給すべく、セッションの回数を増やすことを提案しています。これは私のスタンダードなやり方です。ですから、あなたが同意されるのであれば、当面は毎日いつもの時間に来ていただき、午後5時半にまた来ていただきたいと思います。この間、薬物療法やその他医学上の治療が必要になった場合に備えて、私と一緒に仕事をしている精神科医のブランチ先生〔匿名〕に診てもらいたいと思っています。今日か明日、彼に会ってくれませんか。少なくとも今後数週間は、週1回の診察になります。また、GPにも診てもらってください。

(p. 31-32)

 ボラスは危機的状況が予見される場合、上記のように伝えて治療契約を結ぶ。ともかく1日以上の「隙間時間break」を作らないことが「破綻breakdown」を回避する方途なのである。この際、治療理念(例:むやみな薬物療法を避ける、入院治療を回避する、など)を共有できる精神科医の助けは必ず必要となる。また、家族で状況を理解できる人がいればその人も治療チームに加わってもらうちボラスはいう。運転手を手配することもあるらしい。だんだんと「オープンダイアローグOpen Dialogue」の発想と近いもののように思えてくるな。ともかく対応が後手に回るのは良くない。

患者を手放してしまうと、患者のパニックは増大し、現在出現しつつある歴史的出来事(または早期幼少期に組織化された精神構造)の起源となるものが、幼少期に起こったのと同じ種類の失敗、すなわち自我の破壊に直面する。現在のトラウマは、元の状況——親の狂気の内面化であれ、世界に対する自己の歪んだ反応であれ——が真実であることを肯定するものとなる。一度このような状態に陥ると、元に戻すことはできないと思う。

(p. 33-34)

 ボラスの主張によると、一定の経験を積んでおり、ある程度の勘所を押さえていれば、標準的な精神分析家や心理療法家は患者の破綻の徴候をキャッチし、適切に対処することで、破綻の進行を食い止める事ができる。「私が言いたいのは、破綻とは、自己の幼少期に体験した出来事や、自我の弱さに起因する崩壊など、先送りされた問題の到来によって義務づけられた心理的必然であるということである」(p. 98)。「壊れていた自己」を抱えていた患者が精神分析過程に入ると、破綻が促進されることは十分にありうる話である。「このことは、精神分析が人を悪化させる、あるいは精神分析は病気であり、治療法であると宣伝している、という反精神分析的な発言につながる」(p. 73)。
 さて、実際のところ、ボラスは時間枠の延長や追加セッションを提供すること以外、その作業の内実にほとんど変更を加えないという。つまり、自由連想の促進や転移解釈などは依然として重要なワークとなるのである。他方、ウィニコットらのように無用の退行を促進しないように注意しつつ、仕事上のスキルや人間関係における良い体験など、自我の健康状態に関心を向けておく必要性も指摘している。本書では、3名の分析例を提示して、その様子を示している。
 個人的に興味深かかったのは、ボラスが追加セッションに際して追加料金を取らないこと、そしてそれを明確に患者に説明することだ。彼は破綻に差し掛かる人に対して借金を負わせることは避けたいとしつつ、これは利他主義ではないと断言する。
 とはいえ、疑問も生じるだろう。このような枠の変更それ自体が、批判先のCBTなどと同じように、気晴らしや気逸らしを提供しているのではないか? 自由連想という目的そのものがズラされており、暗黙的に環境適応が促されているのではないだろうか? ボラスほどの経験が必要とされる、いわゆる「名人芸」であって、一般の臨床家が活用できる地検とは言えないのではないか? これらの質問は、第13章に、インタビュー形式で回答されている。ぜひ確認してみてほしい。

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