Christopher Bollasを読む②

 かなり立て込んでいて更新が遅れてしまった。ボラスの自己愛論の続きである。かなり以前に小此木先生が『自己愛人間』という本を出版されていて、こちら未読だったのだけれど、ふと本を開きたくなった。自己愛・ナルシシズムの文献に触れると、妙に色々な人の意見を聞きたくなるのはなぜだろうか。

 さて、ボラスによれば、あらゆる性格障害はある種の「こころの免許証psychic licence」を駆使して発現されている。たとえば、境界例は「障碍者:制御不能」という免許証を持っている。ヒステリー者は子どものままでいる免許証を持っており、「私に大人のような振る舞いを求めてはいけませんよ」という証を携えて、人生の障害エリアに駐車している。このような免許証は、ある意味で破壊行為を許可するための許可証である、とボラスは指摘する。

 では、ナルシストはどんな免許証を持っているのか。自己愛免許証は「相手に同意したい」という傾向に基盤を持つ。その免許証を他者に使うことで、自己に反対させるのだ。この操作によって、周囲からは賞賛を受けることになる。対人関係のすったもんだを持ち堪える能力があるのだ、と。しかし、内心で自己愛者は「私にできないことはなにもない」と呟いている。

 この免許証は、超自我によって内的に管理運営されている。運転免許証と同様に、罰則も用意されている。陰性自己愛者の場合、免許証が更新されないと、突如として怒りを爆発させたり、臨床上顕著な鬱状態を呈したりする。あるいは、自我理想との接続を失うと、自己への信頼を極度に失うことになる。最悪のケースでは、自殺や他殺に及びこともあろう。

 ここでボラスは興味深い概念を提示する。「自己愛的告白narcissistic confession」である。AAなどの自助グループの場合、人びとは真実を明らかにするために「告白」し、回復のプロセスを始動させる。ところが、この中にあってナルシストは、批判者を攻撃し排除するために告白を利用する。「告白免許証」を取得し、他者を攻撃する最上の批判者となり、自分の理想回復のために周囲とのコミュニケーションを利用するのである。臨床家が陰性自己愛者に感じる「立ち入り禁止」の感覚は、ナルシストがこのようにして自身の罪や犯罪を隠匿している力動に対応している。良いものと悪いものが混じり合う交流を避けるため、ナルシストは、見せかけの共感を示し、愛想の良さを振り撒いて、対象との関わりを避け続ける。

 ボラスの比喩によれば、「告白」を戦略的に用いて彼らは、「マイル・マイレージ」を貯め、静かなプライベートの旅を満喫しているのだ。キリスト教文化において、ナルシストたちはプロテスタントに惹かれる。というのも、善行の積み重ねを神に見せることで、神から天国への切符を頂戴するためなのだ。神との関係性は、人間関係よりも優先されるもので、完璧な環境となり、神は栄養を与えてくれる内的対象として機能する。ナルシストは、この神に照覧いただくために、不快で苦痛に満ちた対人関係にあえて参入しているに過ぎない。

 転移の中でナルシストは、分析家が「この分析は進展している」と思えるような素振りを示す。けれど、意味が進展して本当の心的構造の変容が起きた証左たる累積記憶が結局のところ、著しく欠如している。ナルシストは、治療外で起きた出来事や外的要因による問題——自分に由来しない苦しい状況——をいかに乗り越えていくのかを分析家に見せつけてサポートしてもらうが、決して目の前の人間との情緒交流には参入したがらない。

 ところが、ナルシストは、生活の中で避けがたい問題に見舞われる。パートナーとの問題だ。こればっかりはなかなか回避できない。相手も自ずと遠からずナルシストの性格上の問題に勘づく。ここでナルシストのとる戦略が「自己愛宣言narcissitic declaration」だ。なんだか「俺より先に寝てはいけない」を思い出すが。これは「OK、それが君の考えなんだね、でもこれは僕の考えなんだよ。だから話はこれでおしまい」という類のもので、話し合いには発展しない。パートナーがさらに突っ込んでいくと、「ひとりにしてくれて」と返して取り付く島もない。この自己愛宣言がうまくいかないと、次に起きる防衛策は「自己愛的ひきこもりnarcissitic withdrawal」である。

 「自己愛宣言」は治療上、問題の核心に触れると発令される。「おっしゃっていることはわかりました。でも、問題は……」と反応したり、「どうでしょうねぇ、ともかく、報告したい夢があるんですよ。だからその解釈はその夢を検討してからにしましょう」と返したり、分析家の発言に沿うフリをした回避戦術として現れる。分析関係のある種の「対称性」や「自由連想の権利」を掲げることで、このような戦略は高度に合理化されているのだ。

 どうして直面が難しいのか。ボラスはラカンを引用して説明する。法律作りの精神分析理論は、エディプス期を取り上げている。「父の名」というラカンの考えは、父親という存在が、母子関係を切断しつつ統合させる機能を果たす点を描写している。子どもは成長するうえで父親機能を取り入れて、自分の生誕の背景に両親の性交が関与していることを知らなければならない。ところが、ナルシストは、この重要な瞬間を回避しており、自己の法則の前提条件となる母性対象を破壊している。それはなぜ、なのか。そしてどのように、なのか。ボラスは、空虚、ひきこもり、契約などの概念で描き出すのだが、それはまた次回。

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