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"The Evocative Object World"を読む

 まだボラスをインストールしている。先に読んだ『終わりのない質問』の姉妹本"The Evocative Object World"を読んでみよう。2008年にラウトレッジ社から出版された小本である。目次から推測されるに、どうも一見するとバラバラなテーマを扱っているようだ。第1章は「自由連想」を取り扱っており、読んでみると、なんと、アイコン社から出て絶版になっていた"Free Association"がそのまま掲載されていた。
 なので、残りの「建築と無意識」「喚起的対象世界」「第四の対象とその向こう」を読む。

 そもそも「対象object」とはなにか。フロイト以降、精神分析サークルでは「対象」をめぐりさまざまな思索が練られてきた。フロイトは「欲動drive」の構成要素を取り上げる際に、4つの側面を描き出したわけだが、「対象」はその一側面に過ぎなかった。たしか1905年の『性理論三篇』だったかと思うが、ここではどちらかというとサブ的なポジションしか与えられなかった。1917年の「喪とメランコリー」以降、にわかに対象は注目を浴びるようになり、1940年前後にはメラニー・クラインとロナルド・フェアベアンの慧眼により「対象関係論」が成立するほどとなった。
 さて、objectとは「対象」「客体」「物体」「目標」「目的語」など、多彩な意味を有している。ボラスはこの多義性を利用し、従来、人物や人体に限定されがちであった「対象」を拡張する。「私たちは自分の世界を徘徊するとき、自然的であれ人工的であれ、物質的であれ精神的であれ、常に対象に出会う。無意識からすると、物質的な喚起的対象も非物質的な喚起的対象も違いがない。どちらも同じくらい、自己に複雑な内的体験をさせることができる」(p. 50)。

その日で起こった心的に価値のある体験——その夜の夢に競い合うように入る体験——には、目を惹く対象の体験から生じる思考の島が含まれる。そのような対象は、私たちの無意識に痕跡を残すが、その痕跡は部分的にはその物自体の特性であり、大部分は私たち個人の内なる意味の結果である。これらの体験のいずれかが凄まじく喚起的である場合、……それは自己の無意識のなかで「軸を駆動させる」ことになり、そこで現存する思考回路と動いている思考回路とが合流することになる。

(p. 52)

 ボラスにとって、対象とはプロセスである。静的に固定されたものではなく、動的に揺らぐものである。TATの図版にあるように、受け止める人(の「受容能力receptive capacity」)によって、対象は多様な心的状態を生み出す。たとえば、「郷愁nostalgia」は(外的な)喚起的対象と結びついた情緒である。「郷愁とは、失われた愛、引きつづく悲嘆、そして喪失対象の保持を可能とする記憶の喚起力に対する感謝の情動である」(p. 50)。すなわち、実在の物質や物体や人物ではなく、それらを「対象」として主体が出会い、さまざまな思考や感情が湧き上がるとき、それらの物質や物体や人物は「喚起的対象evocative object」なのである。
 人間は、この喚起的対象を自己を表象する欲求のために使用する。芸術品にしても、最愛の人物にして、私たちが時として運命的な出会いを果たす形で遭遇するのが喚起的対象である。ここには「運命欲動destiny drive」が作動しており、人間が自身のイディオムを表現したいというニードを叶えるために、喚起的対象が果たす意味をボラスは強調するのだ。

ほどよい母親や父親の贈り物のひとつは、情動的に手の込んだ体験を求める自己のニードを満たす対象を子どもに供給することである。このようにして供給された対象は変形可能であり、他者の変形可能性の対象であるため、生涯にわたって私たちの内部に埋め込まれつづける。

(p. 55)

 喚起的対象はそれ自体の「品位integrity」を備えている。そして独自の「行列可能性processional potential」を帯びている。人びとはさまざまに自己の体験を喚起する対象を使用して、自分の対象世界を形作る。ある対象を選ぶということは、その対象が次なる対象の「行列procession」を暗示するゆえに、別の対象を選び取らせる。家具やインテリアに何かのオブジェを据えれば、そのオブジェに合う物体を周囲に置きたくなるではないか。移行対象の発見の後、自己の表現・推敲に対象を使用しはじめると、人生そのものもひとつの対象となるのである。
 そういう意味で建築物は、人間をその内部に住まわせる大いなる対象である。引っ越しの際、強烈なストレスを覚えるのは、それがひとつの対象喪失であるからである。あるいは、幽霊という存在に思いをめぐらせるのは、かつての住人をそこにいない対象として考えるからだろうか。
 ともあれ、建築家は、種々の方法でこの心的現実を破壊する。実際に建物を打ち壊し、建て直し、都市を計画し、実行に移してゆく「建築家の仕事は、生と死という重要な象徴的問題を含んでいる。現存する建造物を壊して新しい建造物を建てることは、私たち自身の存在の限界を感じさせ、私たちの終わりを予感させる」(p. 32)。「建築家は、品位ある対象のもうひとつの機能(喚起の機能)に対する自己の欲望を満たすというアイデアで断続的に遊ぶ」(p. 42)。

そんなに深く考えなくても、街を横切るとき——あるいは自分の街を歩くとき——私たちは一種の夢見ることに従事している。関心の対象が目に入るたび、一瞬のもの想い——情緒的な接触点に触発され、なにごとかを考えるとき——が生まれることもあろう。日中、私たちはこのようなもの想い(フロイトはこれを「心的強度psychic intensities」と呼び、その夜の夢の刺激となると考えた)を抱く。しかし、それ自体がある種の夢見ることとして、喚起的対象がもたらすもの想いは、私たちの心的生活の重要な特徴となっている。
 自分の居住地域を嫌う人は、個人的なもの想いの決定的なニードを否定されたために、悲しい状態にある。人はそれぞれ、喚起的対象、いわゆる「思考の糧」を必要としている。対象の世界と関わることで、自己の心的関心を刺激し、自己の欲望を練り上げる。実際、このような動きは濃密すぎて解釈することはできないが、人はそれぞれ、空間を自由に移動しながら、自分独自の存在のイディオムのようなものを感じ取っている。そのイディオムが何であるかはわからないが、私たちは自分自身が実現した形の知性に従って動いていること、対象を選択することで人生を形成していることを感じるだろう。

(pp. 39-40)

 当然、どうしても合わない対象もあるだろう。その場合、そこに「美的落胆aesthetic dejection」が喚起される。これは「自己と対象とのあいだの解決不可能なミスマッチである」(p. 57)。「美的落胆とは、単に自己が対象を使いこなせないことではなく、自己が解決できないことを知っている抑うつ状態のことである。唯一の解決策は、対象そのものから離れることだ」(ibid.)。その意味で、しかし、喚起的はあるとボラスはいう。ただし、自分が住んでいる街そのものが自分に合わないとすれば、結構たいへんなことだろう。
 ボラスは本書で建築の世界を「構築された人間環境を意図的に考慮している事項」(p. 30)と広く定義している。本書で取り扱われている建築の射程は相当に広い。大草原や芝生、あるいはモニュメント、記念碑、あるいはゴーストタウンなど、その主題は多様である。ウィニコットがすでに社会的養護の文脈で、あるいは司法臨床の文脈で、壁や家の意義を重視しているが、それはもっぱら臨床的な側面に終始していた。ボラスはこれに美的な次元——喚起的な次元——を追加している。「建築物は自身の役割を果たすだけでなく、異なる喚起的な機能も果たす」(p. 43)。
 さて、本書ではいささか異彩を放つのが「精神分析的数秘術」を取り扱う章である。なるほど、たしかに精神分析は数に関心を寄せているきらいがある。一者心理学、二者関係、三角解釈…… ウィニコットの有名な箴言「ひとりの赤ん坊などというものはいない」を考えてみよう。1の存在を考える際、別の存在「母親」がいる。1について考える際、実は2を考えているのだ。また、性交は「1+1」であるが、そのパートナーそれぞれには両親(1+1)がいる。ボラスは、ここに「4」を見ている。「第四の対象とは、家族の異なる無意識的関心を、無意識のコミュニケーションのレベルで受け取り、伝達する心的構造のことである」(p. 69)。

しかし、無意識のシステムにおいては、これよりもはるかに多くの作業が行われている。パートナーは家族形成に向け、共有対象を構築するという長く複雑な作業に取りかかる。これを4としよう。徐々に、この第四の対象の周りに、無意識のなかで事物表象が集まってくる。
 精神分析の観点から見ると、私たちは、足し算ができないだけでなく、別の要素が加わるたびに複雑さを増す心的数秘術を発見する。この問題は、セクシュアリティが心的数秘術に与える豊穣な影響によって生じる。見てわかるように、性的な足し算における1+1は2にはならないが、実際には3を作り、4の可能性を生み出す。このように、1は自己を表し、2は自己と他者を表し、3は性交渉による子孫繁栄の余波を表し、4は家族を表す。

(p. 61)

 父親と母親と子ども(たち)がそれぞれいるだけでは、1+1+1+… n に過ぎない。成人の男女と子どもが個々に集合しているだけである。これを「家族」として凝集させるものが、ある種のメンバー同士の共有対象である。それが「第四の対象」である。子どもが思春期や青年期に入ると、この第四の対象が危機に晒され、そして子どもは新しい第四の対象を求めてゆくことになる。
 この第四対象であるが、ただの数遊び(とボラスが言っている節もあるが)に思えるが、臨床的に物事を考える際にとっかかりを与えてくれるかもしれない。つまり、家族の問題が話題に上がるとき、その個々のメンバーやその総体として考える、あるいはその個人の内的世界の表現として考える、だけではなく、その家族たちが共有している無意識的な対象とは何だろうか?と考えるわけだ。すると、少しメタ的な視点が獲得され、家族や個々人の話が違った角度から見えてくるかもしれない。
 とはいえ、さすがにこの「第四対象」のエッセイを本書に入れたのは無理があるだろう。実際、このエッセイには「喚起的対象」という用語がまったく出ないのである。
 本書はボラスの思索の癖のようなものが出てきており、そういう意味で面白く読めたが、あまり臨床的要素が多くはない。いよいよ理論的な本も読んでゆこうか。

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