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『物語と治療としての精神分析』を読む

 訳者の先生方から頂いた本であるし、なにより自身の関心分野fieldでもある「精神分析フィールド理論」の一次文献である。備忘録的に雑感をまとめておく。本書"La psicoanalisi come letteratura e terapia"は1999年にイタリア語で刊行され、2006年に"Psychoanalysis as Therapy and Storytelling"として英訳された。The New Library of Psychoanalysisシリーズの一冊である。今回、この英訳から訳出されて、日本語として読むことができるようになった。
 原題を直訳すると『精神分析は文学であり治療である』(中井久夫式)となるだろう。重訳ではあるが(訳者は適宜、イタリア語の原書を参照しているとのこと)、喜ばしいことである。

 著者アントニーノ・フェッロ(Antonino Ferro; 1947-)については、本書の解題や訳者まえがき・あとがきを読んでもよいし、下記の雑誌に掲載されている福本修氏のエッセイを読んでもよい、目を通せばその人の輪郭を掴めるかもしれない。国際的に見ても、イタリア人の精神分析家はこれまであまり目立ってこなかったが(例外はエウジニオ・ガッディーニか)、フェッロ以降注目されるようになった。

 フェッロの理論的ルーツはウィルフレッド・ビオンにある。それは、ルディ・ヴェルモートの『リーディング・ビオン』(金剛出版)に収められているフェッロのエッセイ「私がビオンに負うもの」というタイトルにも表れている。ちなみに、僕個人は、「フェッロ」と発音するほうがよいと思うが、「フェロ」表記がいまのところ多い。彼個人を扱う入門書も出版される予定らしい。ますます眼が離せない人物だ。

 フェッロは、朋友ジュゼッペ・チヴィタレーゼとともに、独自の臨床理論を練り上げている。彼らの理論は、精神分析理論カテゴリーのひとつ「フィールド理論」に収まるだろう。僕が小林陵氏と共訳した『精神分析フィールド理論入門』(岩崎学術出版社)の著者S・モンタナ・カッツは、フェッロらの理論を「夢幻oneiric」モデルと称している。「入門」と題しているが、それなりの予備知識を求めているのが難点だが、とてもエキサイティングな内容なので、ぜひ手にとってほしい。

 さて、フェッロについて、(1)イタリア精神分析の文脈でも、(2)フィールド理論の文脈でも解説することはできるのだが、ここでは深入りはせず、あくまで『物語と治療としての精神分析』に焦点を絞ろう。とはいっても、各章の要約を連ねるようなつまらないまとめは避けよう。
 フェッロが訓練を受けたミラノという土地はクライン派の牙城であった。イタリアは日本と同じく、さまざまな学派・学閥・学派・流派のごった煮、坩堝である。彼はクラインとビオンの流れを汲み、ローゼンフェルドやメルツァーらからSVを受けつつ、フランス出身の南米の分析家夫婦バランジェの思索に注目し、ホセ・ブレゲールやロバート・ラングスらの治療構造論を摂取した。
 専門分野は児童の精神分析であり、"La Tecnica nella Psicoanalisi Infantile"(英訳"The Bi-Personal Field: Experiences in Child Analysis" 1999)を1992年に出している。クライン派の悪評には「解釈第一主義」が挙げられ、とにかく治療関係や相互作用において治療者の要因をア・プリオリに排除する姿勢、「逆転移の利用」に懐疑的である態度、あらゆる問題をクライエントに帰属させる手続きが批判されてきた。

 フェッロの見解では、「解釈は未飽和でunsaturated多義的な事象(Guignard 1997, 1998)の形を取らなければならず、それは新しい意味(Andrade de Azevedo 1996)への道を開き、いつも建設的で能動的に患者が寄与するような語りの発展を可能にする(Nissim Momigliano 1991, 1992)」(p. 124/邦訳: 187)。「介入に対する反応として絶え間なく示される、当人の解釈を受け入れる能力について自問自答する」(p. 114/邦訳: 174)フェッロは、解釈を単発の介入と捉えない。ラングスやケースメントの「患者によるスーパーヴィジョン」のように、介入の反応としての連想や語りの展開、すなわち「フィールド」の展開をフェッロは注視している。

意味の解読の例としての解釈よりも、意味の絶え間ない生産と構成として面接のなかでの変形を考慮に入れた発展に沿って、フィールドはいま・ここで常に明らかにされなければならないものとしてではなく、のちに続く話し方narrationや小さな洞察と同様に、解釈を必要としないがさらなる変化を予感させるような変形の操作を可能にする「媒体」として考えられる。それはまさに、探索されるにつれて、絶えず拡大し(Bion 1970)、生じうる物語のマトリックスとなり、その多くは発展する可能性が保留されたまま「貯蔵in store」されている、フィールドなのである。

(p. 13/邦訳: 27)

 フロイトやクラインらが提示した精神分析の原型は、現代的には「一者心理学one-person psychology」と形容されている。分析家や被分析者を〈周囲と隔離された単独の存在〉として捉える、この動向はある水準や領分においてはいまだ健在である。しかし、治療関係をひとつのユニットとして考え、分析家と被分析者が相互に分かちがたく関係し合っているつながりと見なす「二者心理学two-person psychology」が台頭してきた昨今、一者的見解を保持するのも困難である。フェッロらの語法で置き換えると、unipersonal/bipersonalの対立である。
 さらに、アンドレ・グリーンやジェシカ・ベンジャミン、トーマス・オグデンらの思索は、第三者thirdというコンセプトを持ち出した。かつてジョン・リックマンが提起していたone-body、two-body、three-body、multi-bodyの未来予想図に沿うかのように、分析理論の枠組みが二者心理学のオルタナティヴを探し出したのだ——一人から二人、二人から三人、三人からフィールドへ。「フィールド概念は関係性という「狭い」概念にとても広い幅を与え、関係性を通して伝えられる前に、「情動的事実」あるいは「原情動」が「部屋のなかに」存在するものとして考えることを可能にする」(ibid.)。
 ここにあるのは、治療者とクライエントという二者関係をさらに越えた、治療状況そのもの、その治療設定、それらが置かれる前後の文脈など、種々のエレメントを混淆させた「現場」という視座である。閑話休題。中井久夫が以前にhere and nowを「現場」と訳したことがあったが、フィールド理論における「フィールド」はまさに「現場」感覚を要請する「この場の雰囲気」や「空気」を指すであろう。
 さて、フェッロの想定では、「患者はアルファ要素に変形されなければならない「未消化な」(Bion 1962)ものをもっているために分析に来る」(p. 38/邦訳: 64)。患者は多少なりともこころを使って考える能力を維持させているかもしれないし、まったくの混乱に陥っているかもしれない。このような患者を迎えて、分析家は、双方の投影同一化物projective identificationsともの想いreveriesの相互作用が渦巻くフィールドを共構築してゆくのである。
 そのフィールドは患者の「病気」にある程度罹患しなければならない。フロイト以降、脈々と受け継がれている「転移神経症」のフィールド理論版だろう。ゆえに、フィールドが病気にならないかぎり、治療に進展が訪れにくいのも道理である。この渦中にあって、分析家はPsとDを行き来する。一方で「陰性能力negative capability」を携えて無限の物語の可能性に開かれつつ、他方で「選択された事実serelcted facts」を選び取って(選ばれなかったプロットを悼みながら)ひとつの物語を紡いてゆくのだ。

分析家には分析の進展と治療に責任があるため、分析状況は必然的にある程度の非対称性が伴っている

(p. 7/邦訳: 19)

 基本的な治療機序をリニアに記述するとこうだ。患者の未消化なベータ要素やバルファ要素balpha-element——「「未消化な事実」としてまさに記憶されうる、部分的に消化されたベータ要素を示す有用な概念であるが、アルファ要素とも未処理のベータ要素とも異なる」(p. 128/邦訳: 81)——は、分析家のアルファ機能が貸し与えられることでアルファ要素への変形を促され、「アルファネスalphaness」の量子が増加し、後々、自律的に患者のアルファ機能が活性化してゆく。
 通常、アルファ要素は、「もの想い」や「夢の閃光oneiric flashes」という現象以外ではアクセスしがたいものであるため、分析家は自身のアルファ機能の顕現としてもの想いをめぐらせる。もの想いや夢の閃光は、さまざまな感覚印象水準の体験がリアルタイムで「ピクトグラム化pictographed」される方途である。これらの結果もたらされるピクトグラム(絵文字)は、「語りの派生物narrative derivatives」以外の経路で知りえないものである。つまり、この語りの派生物をいかにキャッチするのか、という点が実践上、重要な鍵となる。
 語りの派生物、厳密に表現すれば「アルファ要素の語りの派生物」は、たとえば、幼少期の記憶だったり、映画の報告だったり、日記の内容だったり、夢の語りだったりする。その背後には特定のアルファ要素がある。その語り手の「好み」や、そのときの文脈、あるいはそれぞれのアルファ要素に適した形式があって、語りの派生物として表現されるのである。
 いずれにしても、重要なのは、ある種の視覚像という性質を伴っている点だ。これはつまり、アルファ要素は「思考の原視覚的要素」であることを指し、翻って言えば、治療上、「視覚的な閃光visual flash」やもの想いが重要である点を再度強調することになる。これはとりもなおさず、フロイト以降、重視されてきた「夢」という視覚現象を治療フィールドで活かす視座を導入させる。フェッロの技法的工夫は、患者の語りを夢が述べられているように耳を傾けるというものだ。
 ここで大切な概念が「語り方」と「登場人物character」である。まず前者を見てみよう。

私にとって語り方とは、特別な解釈という中間休止なく、分析家が力強く対話的に「ひとつの意味を構成する」なかで患者と共有するセッションでのあり方を意味しているのである

(p. 1/邦訳: 11)

 後者の登場人物について、フェッロはいくつかのモデルを提示する。(1)コミュニケーションの非常に現実的な読みに基づいたモデル、(2)患者の内的世界とその機能やその不全に焦点づけた、空想に強く関連した特徴をもつモデル、(3)現在のフィールドに存在する情緒の織りなすものが、患者と分析家双方のすべての歴史と空想が凝結している地点として現れる語りの痕跡の強いモデル、である。言い換えると(1)歴史的-フロイト的モデル、(2)空想的-クライン的モデル、(3)不飽和関係的-ビオン的モデル、となろうか。

セッションの登場人物は、主に歴史上の事実関係のネットワークの結び目として理解される。この場合、関連する事実は、気持ち、葛藤、情動的な方略を表現するための機会であり、それは常にそれらの登場人物とつながっている。あるいは、これらの事実は、精神内的力動のなかにある現実と考えられているが、ほとんど「自律的」存在を獲得しているのではないか。

(Ferro  1992, p. 2 in 1999/2006, p. 82/邦訳: 130-131)

登場人物は精神内的関係性のネットワークの結び目である。関連した事実は、究極的には、患者の内的現実を偽装してコミュニケートする方途であるが、その現実はすでに「所与のもの」と見なされている。それは患者の無意識的空想のなかにその根源を発見することによってその機能を明らかにしてくれる通訳者を待っているのである。

(Ferro  1992, p. 2 in 1999/2006, p. 86/邦訳: 136)

登場人物たちは対人間、いや、むしろ集団間の語りのネットワークの結び目として[示され]、分析家と患者の現在の情動的相互関係の「ホログラム」として浮かび上がる。

(Ferro  1992, p. 2 in 1999/2006, p. 89/邦訳: 139)

 (1)にしても(2)にしても、登場人物の出自は患者の現実体験や空想内容にある。つまり、「一者心理学」の域を出ていない。(3)の場合のみ、二者以上の関与者がおり、物事が立体的・三次元的に立ち現れてくることが可能となる。
 ちなみに、登場人物は、必ずしも擬人化されている必要はない。患者の語り方に、さまざまに姿を変えながら現れてくる素材を「登場人物」として戯画化したり劇化したりしながら耳を傾けることで、患者の語る内容(=夢)が早すぎる転移解釈や稚拙な介入で妨害されることなく展開することが可能となる。
 最後に「行動化」と「逆転移」に関するフェッロの見解を見ておこう。先取り的に言えば、両者ともに、「フィールド内でまずいことが起こっているシグナル」として理解される。

患者の行動化はフィールドの機能不全を示しており、したがってある程度は分析家のこころの機能不全も示している。

(p. 97/邦訳: 151)

 患者と分析家、そのどちらが行動化をしても、両者ともにフィールドを構成している以上、フィールドという視座からその行動化は理解されなければらない。さまざまに思考をめぐらせると、その背後にはベータ要素やバルファ要素の排出が関与していることがわかる。

逆転移は——消化不良という有益な発作と同じく——分析家のアルファ機能でアルファに変形し損ねたベータ要素がフィールドに蔓延していること、つまり、分析家が自らの覚醒夢思考に接触できていないことを知らせている。

(p. 101/邦訳: 157)

 以上のように、これまで一者、あるいは二者の視点で概念化されてきたさまざまなコンセプトがフィールドという視点から捉え直されている。畢竟、フィールド理論は、この理論を搭載することで、臨床実践に異なる視点をもたらすことを可能とするような、ひとつのモデルなのである。今年には、僕が監訳しているフェッロとチヴィタレーゼの本の訳書をお届けできると思う。フィールド理論に対する関心がどんどん高まってくれると嬉しいのだが。

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