『関係精神分析の技法論』を読む
近年、日本の訳書のラインナップを見ていると、クライン=ビオン派か関係論か、というくらい、関係精神分析relational psychoanalysisの勢いが凄まじい。たとえば、ハリー・スタック・サリヴァンの『個性という幻想』、ルイス・アロンの『こころの出会い』、アラン・ショアの『右脳精神療法』『無意識の発達』など。
今回、取り上げるのは、スティーブン・ミッチェル(Stephen Mitchell; 1946-2000)の『関係精神分析の技法論:分析過程と相互作用』である。原書は"Influence and Autonomy in Psychoanalysis"(1997)である。邦訳が出たのは2023年であるので、20年以上前の本であるが、あいかわらずミッチェルの博識っぷりには驚かされる。個人的には、1990年代の分析関係の本は本当に良書が多いので、古びてなどいない気がする。監訳者は横井公一氏と辻河昌登氏である。これまでもミッチェルの訳書に関与してきた、盤石の布陣である。
僕が初めてミッチェルの本を読んだのは、大学院生とか修了直後くらいのころだった。『精神分析理論の展開』(1983/2001)だったかと思う。「こいつら、化け物か」という感想を抱くほどに、数多の精神分析理論を「欲動/構造モデルdrive/structure model」と「関係/構造モデルrelational/structure model」に分類・図式化する彼らの知識量に圧倒された。本書は海外では出版時からすでに「古典」と言われていたほどだ。ともかく、理論的素地が乏しく、ややもすると実践が先行しがちな「対人/関係interpersonal/relational」精神分析の印象(多分に偏見に満ちているが)がひっくり返った。
初期の著作は教科書的で、生硬な筆致も散見され、いくぶんか独断的な雰囲気も覗かせていたが、本書『関係精神分析の技法論』とその前著『関係精神分析の視座』あたりからミッチェルの独自性が見えてくる。おそらく、頭角を現して以降、さまざまな批判や批評を受けて、ミッチェルの思索が打ち固められてきたのだろう。きちんとクリティカルな意見を受け取ることができるのが立派である。たとえば、どこかで「欲動モデル」「関係モデル」と分類して相互移動できないとするのは硬直的に過ぎるとの指摘(フレッド・パイン)があった。このような批判と対話を重ねることで、ミッチェルの議論は精緻化されたのだろう。
さて、本書は、対人/関係論者とクライン/発達論者それぞれの相互作用に関する見解を対比させる中間層を挟んで、彼の「治療作用」に関する見解と、分析家の「意図」「知識」「権威」をめぐる思索、ポストモダニズムの世界における「ジェンダー」の展望で構成される。この中間層に関しては、特に解題できれいにまとめられているので参照されたい。むしろ、ミッチェルの著作に触れるコツは、先達の理論や見解が縦横無尽に並べられたショーウィンドウのなかから彼独自の意見を引き摺り出そうとして読むことだ。そのため、ここでは、解釈をめぐる見解と分析家それ自体の存在をめぐる見識を紐解いていきたい。
本書の題名になっている「影響influence」の問題を端的に示している箇所だ。治療者は避けようもなくクライエントに影響する。それを切り離して、それから超然として治療介入を繰り出すことはできない。なぜなら「私見だが、解釈から洞察に至るというような治療作用の古典的モデルは、もはやそのままの形では役に立たない」(p. 39/邦訳: 47)。「解釈は、患者を精神病理から救い出すと信じられてきた。けれども、解釈は、私たちが解釈を駆使して治そうとしている、まさに病理そのものに深くはまり込んでいる」(pp. 47-48/邦訳: 57)。
近年の二者心理学に親和性のある分析家は、その治療者に特異でパーソナルな要素を強調する傾向にある。たとえば、トーマス・オグデンはそのひとりであろう。彼は、ビオンの「もの想いreverie」を臨床的に応用し、治療者個人の自由に揺蕩う着想や思索や連想からある種の理解を紡ぐことを提示している。あるいは、オーウェン・レニックであれば、教条的にインストールしてしまった分析的超自我から離脱するために、非分析的・反分析的な介入をすることもあるだろう(けれども、最終的には分析的枠組みに回収されるのだが)。ミッチェルも、治療者の個性や人柄がどうしても入り込んでしまう点に開かれており、この側面を「深く個人的」と記述している。さらに、対人精神分析出身の人としては当然のように、「深く対人的」とも付け加えている。
ゆえに、ひとたび分析過程に分析家も被分析者も足を踏み入れると、両者が否応なく双方の問題に巻き込まれてゆく。いま・ここで起こっているのは患者の問題や病理なのか、あるいは治療者の問題なのか? この点を、ある意味で真摯に向き合ったのがシャーンドル・フェレンツィになり、その実験的試みが「相互分析mutual analysis」になるわけだが、この成果については、マイケル・バリントの著作を参照されたい。ミッチェルは治療者にどのような役割を求めているのか。
分析家が治療者として仕事をし、その報酬に金銭を受け取るというサービスを提供しているかぎりにおいて、分析家には相応の専門的責任が課される。専門的枠組みのなかで、そのギリギリのところまでパーソナルにこころを動かされつつ、ときおり「我を失ってlost」、それでもなお瀬戸際で踏みとどまる。その様相や過程や詳細は、それぞれの分析家によって異なるほどにパーソナルなものであり、その相手となる患者によって異なるほどにインターパーソナルなものだ。
分析的羅針盤analytic compassはそれぞれの治療者がそれぞれに案出した唯一無二のものである。それはその人以外が安易に模倣できるものではない。フロイトの「平等に漂う注意」やシェイファーの「分析的態度」、ビオンの「欲望なく記憶なく」、オグデンの「もの想い」など、各種の心的状態を目指そうと努めてもそれは到達不可能なものであり、到達すべきものでもない。「私の作業のやり方は、特定の心的状態を目指すのではなく、あるプロセスに従事することを伴っている」(p. 193/邦訳: 219)。
自分の靴のつま先を掴んで自分を持ち上げる。そんなことはできっこない。持ち上げる人と持ち上げられる人が同一人物であるからだ。解釈にせよ理解にせよ共感にせよ、あらゆる治療者の行為は、その行為の発信源と分かちがたく結びついているから、その状況や文脈から離脱して、外からの介入、第三者的立場からのコメントとして繰り出せるものではない。この種の問題をミッチェルは「ブーツのつまみ皮問題」と呼び、議論している。
抵抗にせよ、行き詰まりにせよ、陰性治療反応にせよ、ある種の治療上の難局は訪れるべくして訪れる。それを回避しようとすることのほうが無謀である。これらを、治療者の理解不足や解釈不足として概念化してしまう傾向は確かに存在しており、その主張に一理あるところもある。しかし、解釈すれば事態が改善する、というのは本当にそうなのか、とミッチェルは疑問を投げかける。治療者が現に関与している対人関係を考慮しなくて、あるいはその関係性を外からではなく内から眺めずして、事態の改善を望めるのか。
「私の考えでは、精神分析は、ある種の意味を生み出すための、つまり、ある種の体験や生き方を育むための方法となっている」(p. 24/邦訳: 29)。治療者は、それぞれのクライエントの出会いによって形作られてゆく。このミッチェルの言は、クライエントだけでなく治療者にも当てはまるものだろう。治療者は、ある患者との治療作業に入り、そして終えたとしても、もうその作業をする前の自分に戻ることができない。どうしようもなく影響をその患者から受けているはずである。そのようにして、後戻りができない形成の途上に治療者は立たされ、歩いてゆくほかない。そのありさまを「自律autonomy」と呼ぶのだろう。
本書は、これまで以上にミッチェルらしい本だった。残る単著"Relationality: From Attachment to Intersubjectivity"もきっと邦訳されると思う。楽しみに待とう。
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