『臨床におけるナルシシズム』を読む
僕は基本的に一度読んだ本を再読することがない。フロイトのようにいくつかの訳本が出ている場合、それぞれのバージョンを読む、なんてことはあるけれども、同じ本を読み直すことがめったにない。しかし、ものを書いたり、講義をしたりする必要に迫られると、読み返す。今回、必要に駆られてシミントンを再度、読むことになった。シミントンの主著は彼自身が認めるように、本書『臨床におけるナルシシズム:新たな理論』である。原書は"Narcissism: A New Theory"で、1993年に出版されている。
本書はシドニーで依頼された講義録(大成功を収めたらしい)を素地にして編まれた本である。日本では北村隆人氏と北村婦美氏が創元社から訳出している。とても読みやすい文章である。けれども、どうやら在庫がほとんどないみたい。欲しい人はお早めに。
ちなみに、原書には、訳本では訳されなかった序文がついている。ジェームズ・グロトステインが書いており、なかなか的確にまとめてくれている。シミントン「は、周知のクライン派による本能的誇大性/躁的防衛の立場から、あるいはフェアべアン、ウィニコット、バリント、コフートのトラウマ欠乏概念からだけでなく、深遠な存在論的不安ontological anxietyという独自の視座からも、ナルシシズム的対象を理解するようになった」(p. ix)。
ナルシシズムnarcissismは「自己愛」と訳されることもあるが、これは誤訳であろう。別の術語「自己愛/自愛self-love」との訳し分けも問題となるわけで。ナルシシズムの定義や概念史を振り返るのは骨が折れるので、概略だけ示そう。
精神分析におけるナルシシズム概念の受胎は、もちろんフロイトに始まる。1914年の「ナルシシズムの導入に向けて」である。ナルシシズムは、自体愛に続き、依託型対象選択に先駆ける「段階」であり、対象との関係をもたない「状態」である。後者の状態を「一次ナルシシズムprimary narcissism」と呼び、後々この状態を復活させる目的で自我が対象関係からリビドーを撤退する事態を「二次ナルシシズムsecondary narcissism」と呼ぶ。この二次ナルシシズムの状態は、ナルシシズム型の対象関係に等しい。外的対象はあたかも自己の側面であるかのように扱われる。
1917年の「喪とメランコリー」では、メランコリーの内的世界の片割れとしてナルシシズム概念が考察されている。本論考はのちの対象関係論の先駆けであり、「内的対象」の萌芽が確認できる。自己完結的なナルシシズム状態と、関係性の可能性が宿る内的対象関係の弁証法である。ある対象の喪失に主体が耐えられないと、その喪失対象を内在化することで、主体は無意識的空想のなかでその喪失を否認する。内在化された対象は2つに分割され、自我理想との同一化関係に割り当てられるものと、自我そのものに同一化されるものに分かれる。この自我と対象が織りなす内的構造をめぐって、メラニー・クラインとロナルド・フェアベアンが理論化を推し進めてゆくわけである。
シミントンはこれらの理論を「恐怖症理論」(クライン派)と「トラウマ理論」(フェアべアン、ウィニコット、タスティン、コフート)に分けている。
シミントンはどちらの立場にも与することなく、存在論的=実存的立場を打ち立てる。彼はナルシシズムの淵源にトラウマを見ているものの、人はその事態に受動的に左右され、受身的にナルシシストになってゆくわけではないと考える。その悲劇的な状況に直面した際、人は無意識的ながらも、ひとつの選択choiceをする。この、選択を重視する姿勢がシミントンの理論の特徴であろう。しかし、ナルシシズムとはどのような現象を指すのか。
彼の理解では、ナルシシズムとはひとつの精神性mentalityである。「精神性とは、ある人が内外の事象に向ける精神的態度のことである」(p. 62/邦訳: 90)。ナルシシストは、内外の混同が著しく、「他者に対する受容性receptivity」が相当に低く、周囲を信用していないために自身の考えを口に出すことがない。また、欲求不満に陥ると「背を向けるturning off態度」をとり、場合によっては執拗な粘着性を伴った復讐に走る。ナルシシズムは個人だけでなく組織や集団にも観察できる。「ほどよい組織と病的な組織をの見分け方のひとつは、ナルシシズム的な人物を重要な役職から排除する組織の能力を見ることである」(p. 10/邦訳: 25)。
時折、肯定的positiveナルシシズムと否定的negativeナルシシズムという区分けを目にする。さもナルシシズムには健康なものと病理的なものがあるかのような、積極的なものと消極的なものがあるかのような分類にシミントンは異を唱える。理想的な面と価値下げ的な面はコインの表裏の関係であり、両者を分けて考察することはできないからだ。ナルシシズムはどのような場合でも(巧妙に隠されていても)自己中心性self-centrednessをその性状としている。利己性selfishnessは「わがまま」でありながら「自己主張性」とも結びついており、従来の文献で「健康なナルシシズム」として言及されてきた性質を指す。
ナルシシズムは、その自己中心性から他者の要素——周囲の頼り甲斐とか周囲からの批判とか——を受け入れることが困難である(フランセス・タスティンやシドニー・クラインらが言及するような「自閉」現象とも符合する)。前者は他者の強さを「知ること」につながるし、後者では自分の弱さを「知ること」になる。つまり、ナルシシズムは「知knowledge」を拒絶する。ビオンの言葉を借りると「体験から学ぶ(教訓を得る)learning from experience」ができない。「自己self」は「主体-客体subject-object」関係のなかで成立する「本来的に関係的なものである」(p. 18/邦訳: 36)が、ナルシシズムでは自己知が相当に制限される。
「何が起こっているのか」ではなく「何が起こらなかったのか」という見解も大事である。アンドレ・グリーンが「ネガティフnégatif」と呼んだり、岡野憲一郎が「陽性トラウマ」「陰性トラウマ」と呼んだりしている領域も重要だということだ。これに類する視座——「欠落の原則principle of omission」——をシミントンも提起し、この視点でナルシシズムを見てみようという。
「先にお話しした〈欠落の原則〉に立ち戻るなら、みなさんが把握しようとしている現実を知る手がかりを与えるのは、多くの場合、語られたことよりも、むしろ語られなかったことなのです」(pp. 29-30/邦訳: 51-52)。シミントンは、健康な発達途上であれば選び取るはずの対象を選ばないという形で拒絶する契機をナルシシズムの始原とみる。この対象が「ライフギバーlifegiver」である。「……私がライフギバーと名づけたもの——こころが非常に深い水準で選ぶことも拒むこともできるようなひとつの精神対象——です」(p. 3/邦訳: 16)。
自己が「主体」と「客体/対象」で構成される関係的なものであるとすれば、最早期の段階で情緒的な選択をする相手を「主体」にする事象のみ、ナルシシズムの文献では取り上げられてきた。シミントンは、対象関係論の視座から、注目されてこなかった「客体/対象」、それが選択される局面に焦点を当てているのである。「ライフギバーは選択されることを通じてその存在を得ます。……選択の自由optionがライフギバーをもたらすのです。逆説的なのは、それが独立した存在でありながら選択されることなくしては存在しない点です」(p. 40/邦訳: 64)。
子どもは、心的現実を逃れ、外的現実を避けるために、ライフギバーに頼るか、これを拒否して魔術的な虚勢を張るかのどちらかに向かう。これは無意識的な選択であり、後者の場合、ナルシシズムの問題が生じることになる。「私〔グロトステイン〕の理解では、このライフギバーは、内的で幻想的で移行的なtransitional-like対象であろう。これは、自己の諸相と外的な生命維持をする対象から構成される。アイゲンによると、これは、ビオンやラカン、ウィニコットらが述べる「信の行為act of faith」を擬人化した対象である。ライフギバーを部分的に見捨ててしまった不幸なナルシシズム的主体は、解離した下位自己や分身に引き裂かれて衝突し合い、統合を拒み、自ら行動を起こす自発的行為主体性を喪失する」(pp. ix-x)。
「ライフギバーを受容するか拒絶するかというシミントンの概念は、ナルシシストがトラウマに対する反応のために選択した点を明らかにすることで、葛藤/欠陥の議論を股にかけて統合している。このように述べることで、著者〔シミントン〕は、自身の信念とトラウマ欠乏学派の信念に注意を払っている。つまり、自己愛性障害は常にトラウマを起源として現れるが、ナルシシズム的不履行や、無邪気さや本当の自己の喪失が起こるかどうかを決定するのが主体のそれに対する個々の反応であるという考えである」(pp. xv-xvi)。
このライフギバーを拒絶するということは、つまり両親の相互性やつながりや交わりを拒絶するということであり、創造性や可能性や生命性の拒絶なのである。その結果、クラインらが描写する「悪い内的対象」が生じ、内的には抱えきれないために外部へ投影されて迫害的世界が構成される。また、豊かさをもたらす相互性が拒絶されているために、理想化された愛が自己に補填的に供給される。
シミントンの指摘では、人間は他者のなかにある生命維持的対象、つまりライフギバーをこころのなかに取り入れないと、心理的にも生物的にも死に至る。ゆえに、ナルシシストがこのライフギバーという対象に背を向けて、自己を愛の対象とする人物であるとしても、程度の差こそあれ、ナルシシストにもライフギバーが内在化されている。しかし、この事実を全体としては受け入れられないため、この種の人物のこころでは分割や投影が生じる。
「良くも悪くも、幼い自己は死の脅威のために、ライフギバーを選択せざるをえず、そのため同時に自己の分割が生じ、こうして生まれた片割れの部分がこの選択の自由を拒絶するのです。この結果、自己の一部だけがその内に行為actionの源をもち統一性の源をもつようになります」(p. 48/邦訳: 75)。こころは行為の源であるが、この活動ないし行為を動機づける源は「自律的な源autonomous source」と「不調和な源discordant source」に概念上、区別できる。前者はライフギバーが選択された程度によって決まり、自分自身を行為の源とするような社会的で創造的なものである。後者は、ライフギバーが拒絶されると生じ、そこから繰り出される行為は創造性を圧殺する。心的な意味や価値が剥ぎ取られ、「するだけ」とか「しただけ」のように、ナルシシストは自分自身の好意と周囲の相互作用を断ち切る。
「体内化という行為actは、その個人が精神原則を内にもつことを意味し、したがって社会環境が与える条件づけを突破する能力をもつことを意味します。言い換えれば、その人は感覚印象や内からの気分に完全に支配されているわけではないのです」(p. 53/邦訳: 79)。ナルシシストはその感覚に乏しく、不調和な源がこころで優勢を占めるため、他者を操作して行為の源泉とする。これは自己の「性愛化erotization」——必ずしも肉体的なものではない——につながる。
このように、シミントンは、人間存在を理解するうえで「行為action」や「志向性intentionality」をかなり重視する。彼は人間の活動を2種類——運動性活動motor activityと情動性活動emotional activity——に分けて考える。前者はもっぱら外的現実において、生物的な生き残りのために機能する行為であり、後者は空想phantasy内での行為であり、他者との関わりにおいて機能するものである。
健康な人の行為の源は内的なものであるが、ナルシシストの行為の源は表面的なものである。ナルシシストは情緒や感情の調整に他者を操作的に使用するわけだが、その方途が「慰撫storking」や「刺激stimulation」である。中心に空白を抱えていることがナルシシストの問題であるが、内からの支えがないために、この種の人たちは表面を(自分で、あるいは他者から)慰撫・刺激して興奮させつづけなければならない。ナルシシストの自己はその意味でものすごく脆弱である。「それは生命維持に欠かせない原則を欠いた自己です。ゼリー状の自己jelly-like selfです」(p. 55/邦訳: 82)。
トラウマ的な事態に遭遇した際に、その発達段階の諸相で、その当人はさまざまな選択をする。シャーンドル・フェレンツィが指摘し、アナ・フロイトが普及させた「攻撃者への同一化」など、その最たる例である。これに加えて「解離」を駆使して形成されるナルシシズム的防衛構造をシミントンは「ナルシシズム的覆いnarcissistic envelop」と呼ぶ。これはトラウマ的な事象や関係性をさまざまな水準で反復することで維持される。この覆いを築き上げるのがトラウマによる「ナルシシズム的選択narcissistic choice」であるならば、それを打破するために体験するのもトラウマである場合がある。ナルシシズムが選択によって生じたのであれば、逆に選択によってナルシシズムは打ち砕かれるのである。これをシミントンは「ナルシシズムの逆転reversal of narcissism」と呼ぶ。
心理療法がナルシシズムの逆転に資する可能性をもつのは、心理療法が本質的にトラウマ的なものでありうるという側面と結びついている。シミントンが生涯をかけて探求するテーマ——「ナルシシズム」と「宗教religion」——の萌芽がすでに本書に胚胎している。
さて、次はシミントンの別の本を取り上げようか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?