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『患者から学ぶ』を読む

 学会発表の準備や翻訳の校正などでちょっと忙しかったので、ずいぶん更新できず。ここしばらくはパトリック・ケースメント(Patrick Casement; 1935-)の著作を紐解いていこうと思う。幸い、自伝と宗教との関連本の2冊以外、ケースメントと親交がある松木邦裕氏の訳出・監訳・監修で主要著作は岩崎学術出版社から邦訳されている。

 今回は、異例のベストセラーを誇った、彼の処女作『患者から学ぶ:ウィニコットとビオンの臨床応用』を取り上げよう。ケースメント自身の経歴はおいおい出てくるので、ここでは触れないでおく。本書はなかなか個人的に思い出深い。というのも、この本は、僕が大学院時代に座右の書としていたからだ。大学院生というのは、ちょこっと扱いが難しい生き物である。そんななか、本書が指し示してくれた指針は、僕のなかで「ひとつの」コンパスとしていまも根づいている。

 原題は"On Learning from the Patient"で、1985年に上梓された。日本語版は1991年に出版されたが、さまざまな言語に訳出されている。2014年にはClassic Editionとして再版されており、新しい序文にはユング派の重鎮アンドリュー・サミュエルズが名を連ねている。彼の文章をちょっと見てみよう。

けれども、とても屈辱的なことだが、「クライエント中心」とか「パーソン中心」とか呼ばれていても、ごくごく最近まで、主流派のセラピーの多くで看過されてきたのは、患者が導入してくれる大発見的エレメントなのである。
 これは決して満場一致の見解ではない。関係的に作業して、患者が必要としている事柄を患者から学ぼうと求め、さらには患者から促されようとする人たちは、偽りの「平等equality」を導入し、治療の主導権を患者に譲り渡していると、いまだに非難されている。このような批判が依然として闊歩しているのは、セラピーの多くの学派に存在するもの、つまり、魂の統治は可能だという空想に起因する。プロフェッショナリズムが勝利し、治療者は自分自身と、自分が所有していると感じているものについて悦に浸っている。

(Samuels in Casement 1985/2014, p. ix)

 サミュエルズは、自身が「思想警察thought police」と呼ぶ問題——「転移解釈こそ至高」「安心づけてはならない」などなど——が依然として精神分析に蔓延していると述べる。彼は、現代的に見るといくぶん不足している配慮などはあるものの、本書はいまだ有益な本であると語って、序文を締め括っている。
 さて、本文に入ろう。本書は、現代の日本で臨床に取り組んでいる人たち全般にとって有益な本である。それは、本書に登場する大半の臨床例が週1〜2回のセッション頻度で営まれた心理療法によるものであること、あるいは、その一部にはケースメントがソーシャル・ワーカーとして会っていた事例も含まれていること、理論よりは現場に根ざした技法に焦点を当てていること、などが理由である。そして、彼の理屈のバックボーンには間違いなくドナルド・ウィニコットの思索がある。

治療者はあやまちを犯さないように、あるいは自分自身の防衛的な振る舞いに囚われてしまわないように努めている。それにもかかわらず、折に触れて、このようなことは起こりうる。たびたび、患者は、治療プロセスに新しい光を投げかけるような方途で、このようなあやまちを無意識的に利用する。治療者が患者から学ぶという体験によって、それに続いて起こる患者との共同作業は多くの場合豊かなものとなる。このようにして、そうでなければ、深刻な途絶に陥りかねないところから、そのセラピーが修復されてゆくのである。

(p. 3/邦訳: 3-4)

 ケースメントは、治療者が自身の「知らないこと」にオープンであることを重視する。ハナ・シーガルの格言をもじって、理論は「セラピーの主人ではなく、従者であることが重要であることに変わりはない」(p. 5/邦訳: 4)と述べられている。理論は再発見されるものであって、治療者が無知に耐えがたく逃げ込む先の「先知恵」として防衛的に活用されるものではない。「辛抱patienceする以外の道筋などありはしない。治療者は、まだわからないという慎重さを——理解しはじめているという暁のような感覚とともに——保ちつづけておくことだ」(p. 218/邦訳: 244)。
 ケースメントの臨床感覚が冴え渡っている箇所がある。彼曰く、患者の語る物事や体験をわかる準備が整っているならば、治療者は患者の注意を無意識的な含みに向けることが自ずと可能となる。このとき、治療者(と患者)は可能性空間に「半歩足を踏み入れるa half-way step」ために、自然と「たぶん」とか「きっと」とか「おそらく」という言葉遣いをするようになる。ひとつの解釈が「ためらい」とともに患者に「提供」される。「そして、患者や治療者によって、それらを変更したり、追加したり、否定したりすることができる。洞察は患者に与えられるのではなく、患者と治療者が一緒に発見することができる。そのとき、解釈が侵襲となることはない」(p. 219/邦訳: 244)。

分析家や治療者には、精神分析の理論で得られた知識に根ざした誘惑があり、分析過程に従うのではなく、分析過程を操縦しようとするように誘われる。乳幼児と同じく、分析的な成長のプロセスにも相応の推進力が存在する。自然に成長することを妨げられないのならば、乳幼児は通常、準備が整うと、ひとりでに離乳し、トイレット・トレーニングも自分でできるようになる。患者も同じように、必要な「ためらいの期間」(Winnicott 1958: 53)を復活させるべく、治療者による理論的知識の早急な適用や、自分に関する先入観に抵抗することが多い。このためらいが生み出す空間がなければ、分析上の発見や遊びの余地はありえない。それがあるのならば、あらゆる分析とセラピーにおいて、理論は再発見され、改訂される余地が生まれるだろう。

(p. 220/邦訳: 245)

 このように、ケースメントは「わかること」と「わからないこと」を「両眼視binocular vision」(ビオンの表現)する必要性を説く。たとえば、最重要コンセプトである「転移」は、過去と現在の(意識的にはそこまで類似していない)重複が無意識的に同等視されて誤認されることで生じる現象である。しかし、そのように「わかった気でいる」と、治療者は自身が認識されていない「逆転移」を放置してしまい、それに患者は晒されることになる。患者の示す「派生的コミュニケーションderivative communication」を認識し損ねてしまうのだ。このコミュニケーションは「主にそれを喚起したものと無意識に連合、あるいはそこから派生した考えや気持ちを間接的に伝えるコミュニケーションを意味する」(p. 11/邦訳: 12)。
 どうしても「なじみのあるものfamiliar」を人間は求めてしまうため、わかることに安住していたくなるものである。まして、悲しいかな、多くの治療者や臨床家は「有能であること」を実感したがる。そのため、「患者から学ぶ」姿勢を疎かにしてしまう、とケースメントは述べるのだ。しかし、彼の持ち味はその語り口にある。この手の訓戒を彼は「超自我的に」語るのではなく、ひとりの人間として「パーソナルに」語るのである。

セラピストが患者のなかの未知なるものに対してオープンであることで、患者がその後わかってゆくことに資する余地が広がる。このように共同で発見されたものは、両者に属する新鮮さを備える。それ以上に、治療者が患者から学ぶことができることを患者が認識するようになることで、治療上の収穫のプロセスで重要な部分が達成されるのである。こうして患者は、治療者が患者を助け、そのために患者のセラピーで必要なものを発見するという、真の役割を与えられるのである。
 患者は、治療者が臨床的に取り組むことを通して、すでに「わかっている」ことであっても見つけ出そうとする姿勢から利益を得る。これは、他者から借りたもの——患者も借りるのだが——に基づいて、理解することへの近道を歩むよりもずっと良いことのように思う。治療者が古い考え方に立ち戻ってしまうのではなく、患者の言葉遣いの範囲で自分自身を表現しようともがく覚悟があるのならば、新鮮な洞察がもっと説得力を伴って生じてくる。

(p. 26/邦訳: 31-32)

 この学びのプロセスを確保してくれるのが、ケースメントのいう「内的スーパーヴィジョンinternal supervision」や「内的スーパーヴァイザーinternal supervisor」である。邦訳では「心の中のスーパーバイザー」などと訳されている。これはもともとは彼が1973年の論文のなかで示した視点である。

この関連論文(もともとはソーシャル・ワーカー向けに発表したもの)のなかで、私は、家族や夫婦に2名で一緒に取り組む場合、それぞれのワーカーが面接やセッションで起こっていることについて考える際に参照できる「スーパーヴィジョン的観点」を確立することが重要であると提案している。この観点から眺めると、当該のソーシャル・ワーカーたちは、家族や夫婦の相互作用の無意識的な側面を反映している可能性がある点について、両者のあいだの相互作用を調べることができる。この観点が臨床的価値をもつことから、私は同じような参照点を、ひとりのワーカーやセラピストの内側で使うことを考えるようになった。

(p. 56n/邦訳: 35-36)

 M・ミドルモアに倣って、ウィニコットは母子関係を「養育するカップルnursing couple」と描写したが、ケースメントはこれを拡大し「養育する三つ組nursing triad」という考えを示している。これは、赤ん坊を抱える母親を抱える第三者(例:父親、祖母、祖父、専門家)という支持構造を指しており、治療場面においては「治療者-患者」を支える第三者エレメント(つまり「内的スーパーヴァイザー」)として体感されるものである。治療経験に即して述べると、治療者が理論に偏りすぎたり、自身の体験に埋没してしまったりする際のバランスを保つためのブイのように、内的スーパーヴァイザーが機能を果たすのである。
 これは、治療者自身が受けた実際のSVに由来するものや、実在のスーパーヴァイザーを模倣したものではない。このような「内在化されたスーパーヴァイザーinternalized supervisor」が幅を利かせているのはよく聞く話であるが、内的スーパーヴァイザーは、自身が個人分析やSVを受けたり、SVを受けずに作業してみたり、誰かのSVを担当したりするなかで、元来の自身の性状や傾向に立脚した形で育まれる。
 内的スーパーヴィジョンにはいくつかの構成要素というか、側面が存在する。たとえば、リヒャルト・ステルバの「治療的自我-解離therapeutic ego-dissociation」が援用され、「観察自我obsevating ego」と「体験自我experiencing ego」の区分は内的スーパーヴィジョンのプロセス描写の一端を担っている。あるいは、ヴィルヘルム・フリースの息子ローベルト・フリースの知見である「試みの同一化trial identification」が用いられ、患者の語る内容を代理的に体験してみる姿勢が描かれており、解釈を患者がどのように受け取るかを理解する手掛かりとなると述べられている。
 このような内的スーパーヴィジョンは、治療者側の「焦点を合わせないように聴くことunfocused listening」によって手助けされる。これは「平等に漂う注意evenly suspended attention」とは少し異なる、とケースメントは語る。これは、患者の語る内容から識別可能な主題を抽出しつつも、その全体の文脈からは切り離しておくという聴き方である。
 このような聴き方を心がけておくことで、患者の「逆転移解釈countertransference interpretation」(M・リトル)や「無意識のスーパーヴィジョンunconscious supervision」(R・ラングス)に開かれることになる。また、「コミュニケーションとしての投影同一化」(W・ビオン)や「役割-応答性role-responsiveness」(J・サンドラー)がもたらす、治療者側の体験的プレッシャーにも動かされやすくなる。ケースメントが重視しているのは、このような「相互作用的観点interactional viewpoint」である。

多くの場合、患者は、言葉では伝えられそうにもない気持ちを治療者にかき立てるように振る舞う。私は、このような相互作用の形を、インパクトによるコミュニケーションcommunication by impactという大見出しで考えることが有用であると気づいた。
 その基本例として、乳児の泣き声と、それに対する母親の反応を考えてみよう。これは、ひとりの人間が別の人間に働きかけ、それが反応を受けるというもっとも原始的な方途のひとつである。泣いている乳児に対する母親の反応は、通常、母性的直観を駆使して、この特定の泣き声の意味を感じ取ることである。そのために、ある種の泣き声と別の泣き声とを区別するべく、乳児の立場や、自分自身が同じように泣いていたときの母親の立場に共感的に身を置いてみることがよくある。

(p. 72-73/邦訳: 83-84)

 治療者は、焦点を合わせないように患者の話に耳を傾け、適宜、自身のこころのなかで、いくつかの仮説を組み立てることになる。患者との相互作用に開かれているのならば、内的スーパーヴァイザーが機能しているのであれば、適切なタイミングが「ためらい」とともに訪れる。患者から伝えられること、伝わることの細部を治療に結びつけることが解釈であるが、あまりに網羅的であるとそれは講釈になってしまう。必要量を必要なタイミングで伝えるのが大切だ。ケースメントは次のように語る。

私がここで十全な転移解釈full transference interpretationと呼んでいるのは、転移を力動的に完全に解釈することにおいて、一般に結びつけられている3つの要素をそのなかにまとめ上げることが可能な解釈である。その3つとは、(a)患者の現在の生活、(b)治療関係、(c)患者の過去である。(注意 夢やその他のコミュニケーション内容に基づくにせよ、十全な転移解釈を患者に革新を伴って提示できるようになるまでには、数回のセッション、あるいは数週間を要することがある点が忘れられがちである)。

(p. 44/邦訳: 52)

 本書では、ケースメントのその後の展開の多くが予示されている。彼の主要著作でもっとも若い作品だ。本書を書き上げたとき、彼は50歳になっていた。彼は本書の最後で、守秘義務の問題に触れる。「学問的意義がある」「教育上の有用性がある」などが患者の秘密の暴露につながってよいのか、と彼は懸念を示す。正解はない。彼は締めくくりに、ただ、ひたすらに「願って」いる。誰にも身元が同定されないことを。こういうところに、ケースメントの人柄が現れているように感じられてならない。本書は何度も読み直す価値がある書籍だろう。僕たちはずっと「患者から学ぶ」営みを続けているのだから。

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