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『こころの秘密が脅かされるとき』を読む

 2月に入って、今後はクリストファー・ボラスのインストールに取り掛かっている。ボラスはシミントンに並び、多産な分析家である。かつてライクロフトが、自身は体質的にユングを理解することが困難であると述べていた。僕も、ボラスを理解するのが体質的に難しいようだ。ボラスを読んでもなかなかピンとこない。ボラスの詩的な表現というか、自由なエッセイ調な文章が手強いのだ。自分が身を置いている環境が環境なので、どうしても同僚たちから何かとボラスの名前が上がってくることが多い。「ふむ、ボラスね」などと返しつつ、内心、いまいち彼の思索を掴みかねている自分を体験してきた数年間だった。ここいらで一念発起して、ボラスを体系的に取り込んでいきたい。
 こういう場合、ともかく自分の関心分野に従って読んでゆくことだ。邦訳があるからといって、いきなり『対象の影』や『精神分析という経験』から読むと痛い目を見る。ということで、今回はマイナーかもしれないが、"The New Informants: The Betrayal of Confidentiality in Psychoanalysis and Psychotherapy"を読む。1995年にJason Aronson社から刊行された、分析家ボラスと法律家ディヴィッド・サンデルソンの共著である。日本語訳すると『新たな情報提供者:精神分析と心理療法の守秘義務違反』となるか。

 本書、異例である。精神分析と法律のロジックが網目のように張り巡らされており、一般向けの読み物としても面白い。テーマは「守秘義務confidentiality」である。昨今、さまざまな人がさまざまに意見やコメントを表明できるSNSを眺めていると、専門職者たちの守秘義務の意識に眉を顰めることが多い。結構なベテランの心理職が、市井の医師(科を問わず)が、病院勤めの看護師が、実践で出会う人たちの状態や発言を平気でインターネット上にアップしている。びっくりする。と同時に、自分はどうか、と思ったり。
 さて、本書はそのような守秘義務を「倫理」の視点でのみ、取り上げるわけではない。一方には「法律」、他方には「臨床」という視点が据えられており、立体的に秘密保持の意義と限界を論じている。日本では「公認心理師」が誕生した結果、多くの心理職が存在することになった。けれども、守秘義務という、もっとも根幹の臨床倫理をどこまで共有できているのか、心許ない。
 本書の成立の背景には、増加の一途を辿る児童虐待という社会的問題があった。児童虐待は通常、家庭という密室空間で繰り広げられる。公私を区分するリベラル的な境界のなか、私的private空間は公的public介入を退けてきたが、そのプライバシーの領域において、子どもという弱い立場の人間が窮地に追い込まれる。それを防ぐために、児童虐待防止法のようなものが制定されるのも道理である。
 けれども、この立法過程に、心理療法家や精神分析家たちは無頓着であった。とりわけ、精神分析では「自由連想free association」という手法をとり、どのようにイリーガルな発言でも許される空間を患者たちに提供していたのに、である。そこでは、殺人願望や虐待を加えた体験が語られうる。しかし、臨床家がそれを「現実」のものか「空想」のものか区別するのは至難の業だ。特に殺意など口に出た時には——臨床家であればきっと「タラソフ」事件を勉強したことがあるだろう。ともあれ、この自由連想という手法の強調こそ、クリストファー・ボラスの特徴なのだが、それはまた後で。
 政府(ボラスは少しアナーキーなところがあるのだが、ここも面白い)は、人員確保のために、あらゆる住民を児童虐待の通告義務者に据えていこうとした。そこには当然、心理臨床家も加えられることとなった。なんなら、自ら率先して、心理職に通告義務を貸してくれるように要請する手紙を出した者もいたとか。ボラスたちは首を傾げる——「なぜ精神分析と心理療法は、臨床家と患者のあいだに存在していた守秘義務の破壊を許してしまったのか?」(p. xi)

心理療法家に対して自分の私的生活を開示する患者を保護するのではなく、〔児童虐待報告法という〕法律のもとに報告する心理療法家(あるいは別の誰か)——すなわち、情報提供者informant——を保護することになる。

(p. 48)

 法律によって新しい情報提供者となると、臨床家は、ある水準で患者にとって警察当局と同じように体験されてしまう。本書の白眉は、この守秘義務が、法律上どこに位置づけられるかという問いではなく、臨床実践をどのレベルで下支えしているのかを探索しているところにある。「秘密は守ります」——どこのカウンセラーでも相談員でもよく口にする文言だが、それは本当なのだろうか? 秘密が守られることの意義、それを傑出した分析家であるボラスが論じるのだから、面白くないわけではない。
 ボラスは分析の視点から、サンデルソンは法律の視点から、徹底した守秘義務の重要性を説いている。では、児童虐待や殺人予告の問題に実際に直面するとどうするのか。ただただ何もせずに傾聴するのが良いのか。それを空想として解釈すれば良いのか。その点はぜひ本書を読んで確認してほしい。
 僕の本書を読む目的は、あくまでボラス臨床のエッセンスのインストールのためだ。なので、ボラスの臨床の見方を学びたい。

少なくとも自分の内的生活とわずかにでも接触していれば、人びとは、原空想、すなわち母親の身体を攻撃し、両親カップルを暴力的に攻撃し、愛情をめぐるライバルに残虐行為を行う幼児の魔術的見解に由来する思考に悩まされる。精神分析がかねてよりとってきた見解によると、このような普遍的な無意識的空想を病的手段——すなわち、それらに対して過度に防衛すること、あるいは倒錯行為に向け返ること——で処理してきた人たちを助ける方法は、無意識の連想を言葉にして発する自由連想の考え方を促進することである。耐えがたい事柄を話すことは実際にそれ自体が助けとなり、治療プロセスの一環であるが、非常に具体的な空想を報告することも同様である。というのも、これらの空想の精密な構造が、さらに分析をしてみると、当人の父母との関係について非常に多くの事柄を明らかにするためである。自身の空想について話すこと、それが本当は何であるかを発見することは、絶対的信頼という雰囲気のなかでしか起こりえないだろう。なぜなら、各人は、自分がその極悪非道の考えを——口に出すのはもちろん——面白がることも神々から容赦なく罰せられるのではないかという「原始的」信念を抱いているためである。

(pp. 75-76)

 ボラスの筆致にはとても力強い「信faith」を感じる。相当にインテンシヴな作業を経て、女性に対して付き纏い行為や家庭での動物虐殺を繰り返していた男性がそれらの行為をやめたという例などを示しつつ、自由連想することの意義を強調している。そして、自由連想は口で言うほど簡単ではないため、間違いなく守秘義務という基盤が必要なのである。

……精神分析に入る際、面接室では容認しがたい精神のコンテンツや自己の部分があると事前に知っているか、あるいは臨床家から聞かされているとすれば、その人にどのような影響があるのだろうか。そのような部分が特定される前に、悪影響が出ている。というのも、なにかを排除することは心乱すもの一切を排除することを意味し、パーソナリティで心乱す部分を自己に留めておかなければならないと患者に伝えてしまうからである。ところが、法律がある種のセクシュアリティと攻撃性を悪霊として指定したという事実は、患者の心臓にすでに突き刺さっている短剣に悪影響を与えるだけである。すべての患者は、性的な考えや攻撃衝動が自己にもたらす危険を無意識的に恐れている。これがフロイト派精神分析の核心にある。臨床家がいまや完全な守秘義務を保証できないことを知っており、患者が誰かを虐待したり場合によっては虐待の犠牲者であったかもしれないという確信にフッと入り込んだり、結婚相手を切り刻むことを突如として鮮明に想像したりしようものなら、分析家が警察に通報しなければならないことをわかっていると、あらゆる患者にとって、悪い思考が招く適切な結果は罰であるという無意識的確信が強化されるだけとなる。

(p. 83)

 本書はとても短い。しかし、とても濃い。法律という点で、日本にそのまま適用することが難しい箇所もあるにはあるが、児童虐待防止法の理念は日米で同じく「子どもの権利条約」に沿っているし、臨床感覚は共有している部分が大きい。
 いささか形而上学的な語り口が目立つボラスであるが、本書は共著であることも手伝って、自身の見解をはっきりと端的に綴ってくれている。守秘義務そのものに僕は関心があったけれども、ボラスが自説をコンパクトに示してくれた点は僥倖だった。(付記:2024年4月に拙訳が出ます)


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