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『終わりのない質問』を読む

 引き続き、ボラスのインストール中だ。なるだけ臨床に接地したボラスを読む。2011年に誠信書房から出版された『終わりのない質問』を紐解く。原書は"The Infinite Question"で、2009年にラウトレッジ社から出ている。本書には、3名の被分析者のセッション記録が逐語的に載せられており、そこに対するボラスの後知恵が付されている。分析家の頭のなかを垣間見ることができるという点でも興味深い本である。

 「本書は、精神分析における自由連想を通して、人びとがどのように無意識に自己表現しているかを探る」(p. vii/邦訳: xi)。ボラスは、精神分析の目標はただひとつ「自由連想free association」であるという(『精神分析という経験』)。自由連想は、自由な語らいであるが、無秩序ではない。そこには、考えることの「順序sequence」がある。ボラスはこれを「順序論理logic of sequence」として概念化し、患者が自由連想という形で「終わりのない問いinfinite question」を発している様子を描こうとしている。
 連想にそもそも「疑問欲動interrogative drive」が備わっているため、自由連想そのものがなんらかの疑問文interrogativeの位置をとる。人間は何かを問い確かめたいという欲求(「知識欲動epistemophilic drive」)をもち、「変形性対象transformational object」との早期体験や「未思考の知unthought known」が事後的な理解を求めて大人になって脳裏をよぎるようになる。「疑問要素interrogative element」は、幼児の自由な想像力と成人の認知力が結合して形作る知る欲動の一部である。

乳児は対象を見ているが、その体験をいまだに知らない。乳児が背を向けるのには、ひとつの問いが含まれている——「これは何だろう?」 この問いは、その瞬間の自発性のなかから生じてくる。同じく、自由連想する被分析者は、何か、頭に浮かぶ考えを見つけるが、自分が体験したことについて自分がどう考えているかはわからない。しかし、延々と話しつづけるうちに、そのように流転する言外の意味が、自分が知っていることについて探求する問いかけから成り立っていることが感じられるようになる。問いという形formが——陰に陽に——私たちの知識への関心を駆り立てる。

(p. 101/邦訳: 180-181)

 自由に連想された着想は、それ自体が「本来的に解釈的である」(p. 7/邦訳: 9)。自由連想は創造性の一形態なのである。無意識は自由連想という創造性の行使によって暗に示されてゆく。どうもこの無意識の順序はさまざまな形態をとるらしい。この形態を「種類category」と「部類order」として分類することもできそうだ。たとえば、関係性という種類のサブカテゴリーに転移や逆転移という部類が存在する、というように。あるいは視覚性や音楽性という種類もあるだろう。
 さて、このように被分析者が自由に連想するなか、分析家は平等に漂う注意を向けて耳を傾けることになる。ボラスは、フロイトが指摘した無意識の二側面のうち、「抑圧的repressive」ではない「受容的receptive」無意識を重視する。なにかに焦点づけた選択的な傾聴ではなく、あくまで分析家は注意を平等に漂わせておかなければならない。そうすると、ときおり、これまでの自由連想の内容とは際立って印象的な連想が耳に入ってくる。ボラスはこれを「ラディカルな自由連想radeical free association」と呼ぶ。「ラディカルに自由に連想されたものが注目されるのは、それまでの連想とは対照的だからである」(p. 39/邦訳: 63)。

要するに、良質な技法と悪質な技法を区別することは可能である。分析家の理論的背景がどのようなものであれ、その分析家が耳を傾けて、自由連想的な素材を引き出すのであれば、それは良い分析である。分析家の仕事が——理論の行使においていかに見事なものであっても——自然発生的な自由連想が引き出せなければ、それは良い分析ではない。つまり、分析ペアのうちとあいだで、深い無意識の作業が行われているかどうかが問題なのである。

(p. 93/邦訳: 165)

 ボラスの理解では、重要なのは被分析者の自己分析であり、その方途が自由連想なのである。転移解釈などは、連想を促進することを目的とし、それに成功する場合にのみ有効な介入と言えるが、往々にして自由な連想を妨げる。被分析者は、なんらかの形で無意識的に考えつづけている。何かを問いかけ、問いただし、問い直し、また問いかける。この「自由連想的契機free-associative momentum」を妨害するのが悪い技法なのである。少し長いが、ボラスの視点を知る節を引用しよう。

収束点が存在し、ときには、忘れ去られた資料が発見され、そのおかげで症状の構造が解明されたり、夢の意味が解き明かされたりするのに役立つこともあるだろう。しかし、それ以外はどうだろう? 分析的解釈には至らない思考回路はどうなのだろう? この無意識的思考と無意識的分節化の理論によれば、分析家がセッションのなかで患者が提示する要素をすべて集めることは、相当に不可能であると示唆される。
 グループ・スーパーヴィジョンをしていると、分析家も被分析者も、その「なにか」が何であるかを知らないままに、なにかに懸命に取り組んでいると何度も気づかされる。実際、分析家が分析過程に深く関われば関わるほど、何が起こっているのか意識的にはわからなくなる。分析家は、起こっていることを意識的に考察するためではなく、無意識的な作業を可能にするために拵えられたもの想いという形式formに迷い込まなければならない。
 ……その代わりに、選択的傾聴の立場をとる。自分の好きな理論的欲望の対象——去勢コンプレックスであれ、転移であれ、解離状態であれ——を探すのである。それに従って、素材は自然と組織化され、耳にされることに対してフィルターをかけてしまう。
 選択的傾聴は、フロイトが提起した平等に漂う注意の立場とは正反対であるが、イデオロギー的な命令によってであれ、患者について得た知識によってであれ、すべての分析家は必然的にその立場に陥ってしまうことがある。心機一転、耳を傾けることは、ときとして困難である。

(p. 92/邦訳: 163-164)

 無意識から発せられる問いかけではなく、意識的に限定された質問に終始してしまうと、結局、被分析者が未思考の知を考えることはできない。被分析者と分析家が「フロイトのペアFreudian pair」を形作り、自由連想という終わりのない問いに取り組むしか、意識外にある思考の形式formに接触することでしか、抜本的な変容は訪れないのである。
 本書はコンパクトであるが、ボラスの臨床エッセンスを指し示してくれている。姉妹本である"The Evocative Object World"がもう少し、本書の思索を展開してくれているようなので、そちらも読んでみることとしよう。

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