ピタパンジョーダン

もうお気づきの人もいるだろうが、このブログを読んだ人はもう内容を覚えていない人が殆どだと思う。

なぜならそのように、忘れやすいように(ただの駄文)書いているからだ。

それもそのはず、読んでも頭に残らないように、研究に研究を重ねさらに工夫と吟味して、二重の極みを習得し、教会で懺悔し罪の赦しを得ているからでもある。

極め付けは素晴らしい言葉もなければ、言語化したところで使える場所もない。だからこそ友達にも薦めづらい。

しかし、まさかこんなにも工夫を凝らしまくっているとは考えもしなかっただろう。だからこそ、頭にも容量の負担もかからず、お金もかからず、オールフリーで正解も不正解もなく攻撃力も無い文章だらけで混乱を招くだけでもある。

だが、正解不正解と言ったが心の奥底では誰しもが、正解を求めているのではないかと私は思っている。例えばファッション、言語、恋愛、音楽、お笑い、センスなどでもだ。多くが「自由」だと唱え主張されがちなコトが多いのではないか。


分かりやすくピタパンジョーダン族で考えてみよう。

注:ピタパンジョーダン族とは  一応説明しておこう。

「ピッタピタなパンツやダメージ受けすぎスキニーを履き、エアージョーダンを好んでスタイリングをし、◯ュ◯◯◯◯、◯◯◯◯イ◯、◯◯◯◯を着る若者達。黒いマスクをし、前髪を垂らしニット帽かツバ広ハットをかぶり、整髪料をつけ、女子ウケ意識ハンパない」

まさに量産型。スクランブル交差点で渡るときに一人は必ずいるだろう。

「個性を出せ!」「自由だ!」「生きるレシピなんてない!」と叫ぶのに、なぜピタパンジョーダン族は生まれたのか。

周りから見て「それが正解であり失敗をしないからである」まさにコピーにつぐコピー。着こなしもバックグラウンドも含めコピー。はたけカカシも驚愕のコピー具合だ。もはやピタパンジョーダン族は血継限界のひとつとも言っても過言ではない!

たぶん人間は自由より、ある程度の正解や答え合わせがないと不安になってしまうのではないか。だからこそ「似合う似合わない」、「合う合わない」の答えに辿り着く前に正解を求めて、失敗を繰り返していくのではないだろうか。


今朝、私がテーブルでコーヒーを飲んでいたらちょうど妻が7ヶ月の娘のオムツ(今日は大漁)を替え終わったので、これは手伝った方が正解だと思い「パス」と言ったら、速めアンダースローで顔面目がけてオムツを放ってきた。妻にとってはそれが正解である。

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