愛なんだよ

伝えるということには少なからず「技術」が必要である。思ってること、言いたいこと、やって欲しいことなど簡単そうだが一人一人の人間が違うように伝え方や解釈も一人一人で違ってしまう。(私の場合は噛みながら、さらにはどもりながら思いついたことをすぐ言葉に転換し、伝きれない部分は笑顔でカバーするという混乱させる天性の高等技術を駆使しまくっている)

では、なんで伝えられる人と伝えられない人が生まれるのか。簡単である。「愛」があるかないかだ。「愛」なんだよ。ユノンーセーン?

じゃあ「愛」ってなんですか。

正直わかりません。なんで人は生きてるんですか?なんで空は青いの?なんでオジサンかオバサンの区別がつかない人がいるの?、なんで黒髪短髪ガングロが一定数いるの?なんでギャル男はシワくちゃなレザージャケットを着たがるの?なんで女性はアボカドが好きなの?なんでクリープをいれたコーヒーはおいしいの?ってかクリープってなに?ぐらいに答えはない。


「愛」は多様化であり様々な種類がありこれといった定義が出来ないということではないか。


ではなぜ伝えられる人と伝えられない人の様な差が生じてしまうのか、それはそのモノやコトに関して(例えば、歌、スポーツ、お笑い、ファッション、デザインなど)どれだけ愛を燃やし消費して再生し救われてきた量なのではないか。そもそも伝える時に相手への感謝とリスペクトを持っているか。そのモノやコトに感謝とリスペクトを持っているか。

わかりやすく自己啓発本みたいにいうと。

ーインプット→考える→アウトプット→成功or失敗→インプット・・・・・の繰り返しではなかろうか

だからこそ「センス」=「愛」という形式を私は提案できると思っている。

「センスを上げる」とは。そのコトに関して必死に考えて、練習して、失敗して、そのコトに助けられて、仲間ができたり、他の人を助けてあげたり、力になってあげたりラジバンダリ。わかる?「愛」なんだよ。マジで。ユノンーセーン?

まあよく聞くのが「あの人センスあるよねー」「あれはもうセンスだよ」

当たり前じゃボケ!貴様より犠牲と成功と失敗が桁違いに違うコトに気づけカス。貴様の脳みそのキャパは鳩か?と私は思う。愛によって救われて「センスが上がる」んじゃ。

こう考えると誰にしも「愛」というものを持っていて、愛は必要であり、愛の言葉の言語化は難しいし、定義もなければ、愛がありすぎるとうっとうしさもあり、無さ過ぎれば寂しいし、愛とは無償でカタチのものであり、相手を大切に想う気持ちであるはずで確かめようがないはずなのに、女性は常に高価な靴とバッグを要求し愛を確かめてくるし、手料理をおいしいと言わなければならない。

これも愛のカタチの一つなのか。

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