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伊藤博文に小便をぶっかけ平気だった豪傑無私の政治家の話

明治前期の三大県令の一人

 そろそろ東京都知事選挙が告示されるようだが、戦前の日本においては、府県知事は内務省を中心とし、中央官庁から派遣されていた。いわゆる役人であった。その名称は大参事であったり、県令であったり、いろいろ変わったが、最終的に知事に落ち着いた。
 彼らがどんな人たちか、どんな仕事ぶりだったのか、よくわからない。ただ、その一端を垣間見ることができる本を読んだ。『安場保和伝 1835-99 豪傑無私の政治家』(藤原書店、2006年)である。
 主人公、安場安和(やすばやすかず)は1835(天保6)年に熊本で生まれた(当時は)武士である。その師があの名高い横井小楠で、幕末、横井門下の四天王として頭角をあらわす。官軍が東征する際には、東海道鎮撫総督府参謀という、名前はいかつく、位も高かったであろう役職に任じられ、江戸城の引き渡しにも立ち会っているというから大したものだ。
 その安場は、胆沢県(今の岩手県の一部)大参事、福島、愛知両県の県令、福岡県の県令、北海道庁長官などを歴任。その間、元老院議官、参事院議官、貴族院議員といった中央の役職にも就いている。決して、中央で働くには能力が低いから地方へ廻されたわけではなかった。実際、安場は槇村正直、楠本正隆とともに、明治前期の三大県令と称されていた。

名古屋城の金鯱を取り戻す

 県令の仕事は多岐にわたる。たとえば、福島では県庁の位置確定から仕事が始まった。荒れ果てた地の開墾、製紙会社、産馬会社などの創立をはじめとした殖産興業策、運輸・交通・通信の整備と教育・厚生・文化の振興と、欧米に負けじとひた走る、日本を単位に行われていた施策のミニ版をかの地で展開したのである。
 さらに、当時は自由民権運動以前で、新しく設置されるべき地方民会を公選制とするか、区長戸長を議員とするか、という議論が、東京・浅草で行われた第一回地方官会議でなされ、安場もこれに出席しており、先の公選論を堂々と主張した(ただし、結果は否定された)。
 愛知県令時代には、勧業費を地方税の名目として、府県財政に組み込もうとした。その背景には、「日本全国おしなべて言えることだが、民力だけに頼り、政府からの補助が少しもない状態では、ほかに誇れる知識や財力をもっていたとしても業(なりわい)を起こすことは不可能だ」という彼の問題意識があった、安場の県議は第二回地方官会議で取り上げられ、今度は可決される。
 愛知県令時代には、明治維新後の旧物破壊の風が吹き荒れる中、「無用の長物」として宮内省に収められてしまっていた名古屋城の金鯱(きんしゃち)を取り戻すことにも成功している。金鯱のない名古屋城ではまさに画竜点睛を欠く。名古屋の地位を文化的にも向上させようとしたのである。

文明理解の基礎は鉄道にあり

 福岡に県令として赴いた理由は、やりたいことがあったからだ。それが何かといえば、鉄道の敷設である。
 当時の福岡は民権勢力が強く、県の官僚を手こずらせていた。その行き過ぎた力をうまく抑え、福岡の治世を改善すべく、安場を県令として選んだのは、内務大臣の山県有朋であった。その山県に対し、自分を鉄道敷設に関わらせてくれるなら、という条件付きで、安場は福岡県令になることを受諾している。
 福岡の民論が頑固で制御しがたいのは、交通機関がないため、文明の要点を理解し得ないからだ。地域を開拓し人を導くには鉄道の敷設より急を要するものはない、というのが、安場の考えであった。実際、九州鉄道株式会社を1888(明治21)年に発足させている。同社は博多・千歳川間を皮切りに、博多・久米間、さらには小倉、門司までを路線化した。

砂糖水を頼んだら葉巻とバターを出された英語力

 さて、この安場には面白いエピソードがある。1871(明治4)年、岩倉使節団の一員として米欧回覧の旅に出た際、米国から途中帰国している。その理由が奮っており、宿泊したホテルで砂糖水(シュガー・ウォーター)をもってくるように給仕に頼んだところ、「イエス、サー」と言って引き下がった給仕が葉巻(シガー)とバターを持ってきたという。かように英語ができない自分がこの旅行を続けるのは税金の無駄遣いだと主張、皆の止めるのも聞かず、日本に帰国してしまったのである。
 この本は10名の共著であり、このエピソードをそのうちの2名が記しているが、第二章を担当した三澤純という日本近代史専攻の大学教授は、このエピソードのみで、安場の帰国理由を語ることはできないと書く。一方、第十章担当の哲学者で、『思想の科学』を創刊したことで知られる鶴見俊輔はこのエピソードを安場安和伝の白眉を飾る話だと書き、こう結ぶ。〈このことによって彼は後年現在の経済大国日本の高級官吏たちと型を異にするからだ〉と。
 この鶴見がなぜ稿を寄せているかというと、安場は彼の曾祖父にあたるからである。鶴見の父は祐輔であり、その父、つまり鶴見俊輔の祖父はかの後藤新平だった。その後藤新平を県令として赴任した胆沢県で見い出したのが
安場であり、二女の和子と結婚させている。

無欲恬淡の風格

 その鶴見がもう1つ、安場に関する面白いエピソードを紹介している。頭山満という戦前のアジア主義者が語った話である。伊藤博文が総理で、安場が福岡県令だったときのこと。馬関(下関)における舟遊びの最中、安場が舟上の風上で小便をしたところ、そのしぶきが伊藤に引っかかった。伊藤が小言を言うが、安場は聞き入れないどころか、なじり返すように放談揶揄を続けながら、小便を続けたという。
 頭山はこうまとめる。
〈こんなことはよほどの豪傑でないとやれぬものだ。当時の総理大臣、伊藤にこうしたことをやれたのは安場だけだ。浪人ならば、こんなことでもやりかねないが、役人だから偉いのだ。このような偉さがどこから来るかといえば、安場の無欲淡泊の風格から来ている〉。
 安場は金銭には本当に頓着がなく、自らの資産は築かなかった。「死して余財あるは、陛下に背く所以」という文書を死の床に秘めていたという。こうした豪傑無私の政治家の存在を、金銭欲にまみれた今の政治家に知らしめてやりたい。

 
 

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