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「水を光に変えた男」福沢桃介に学ぶ不屈の闘志と人間力 その2

この1月、私が上梓したのが『水を光に変えた男 動く経営者、福沢桃介』(日本経済新聞出版)という単行本である。明治大正期に活躍し、木曽川流域に7つの水力発電所を開設、電力王と呼ばれた実業家、福沢桃介(1868~1938)の生涯を描いたビジネス小説だ。
現代のビジネスマンが桃介の生き方から何を学ぶべきか、3回にわたる連載の2回目をお届けしたい。

金は金を愛す者のところに集まる:投資および金銭哲学

株価上昇はビールの泡が盛り上がるのと一緒

福沢桃介は実業家となる以前、相場師として名をはせた。特に大儲けしたのが日露戦争の後のことだ。1907(明治40)年1月18日、東株(東京株式取引所株)は785円まで上昇する。このまま1000円台まで行くはずだと誰もが買いに走るが、これが天井で、そこからは釣瓶落とし、一時は91円まで下がってしまった。

欲の皮が突っ張った人たちはなけなしの金を失ったが、桃介は暴落する前に売り抜けており、250万円ほどを手にしていた。現在の貨幣価値に直すと約30億円に相当する。

桃介は株価が上昇していく様子を「ビールの泡」にたとえた。瓶からコップにビールを注ぐ。その泡が盛り上がり切ったところが高値となる。そこから泡が消えていき、水になってしまうから、泡が盛り上がらない間に買わなければならない。泡が出来てから買うのでは遅いし、泡が消え、水になってから買うのは一番愚かなことだと。

大波、小波、さざ波、重要なのは大波

アメリカの経済学者の言葉を引き、こうも言った。「二年三年にくる株式の変動は、潮の干潮によって動かされる大波のごときものだ。この大波は潮の干満を学術的に研究すれば、それがいつくるか、いかなる高さと幅を有するか、大体測定することができる。

二三カ月に起こる変動は風によって動かされる小波のごときものだ。この小波もその風の速力方向などを調査すれば、ほぼこれを測定することができる。しかし、大波ほどは精確な測定はできない。

二三日に起こる変動は、微風によってできるさざ波のごときものだ。さざ波に至っては色々な原因から生じ、たちまち起こりたちまち消えるものであるから、どうしてもこれを測定することができない。まったくその通りだ。毎日変動する新東株の相場は、一日前はおろか一分前でも予測しうるものではない」(堀和久『電力王 福沢桃介』)

大波を動かすのは景気であり、金利だ。小波は政治や経済の突発的動きに影響されて起こる。さざ波は、桃介の言う通り、色々な要因によって生じる。
このうち、その趨勢を読むべきは大波だ。

自著でこう説く。「日々における相場の高下には意を用いず、その大局に見当をつけて、例の大波動の来るのを待っているのである。たとえば、二十円のものが三十円に上がろうと、また二十五円に下がろうと、そんなことは一切お構いなしで、これは結局百円に昇る時期がくると見たら、半年でも一年でも、ないし二年三年でも待っている。かくのごとくすれば、

(中略)よし百円と見込んだものが百円にならなくとも、それに近い八十円とか、または飛び越して百十円になるとかいう時が必ずくる。その機を誤まらず買うなり売るなりしてしまう。つまり頂点(トップ)はここだなと見極めをつけることが大切であるが、これは説明の限りにあらずで、各人の才機に任せるよりほかに道はない」(福沢桃介『富の成功』)

株価の細かな変動には目をくれず、長期で株価を見るということだが、株をやるにあたって、桃介は以下4つの原則を定めていたという。
●株価の日ごとの小さな波動には目をくれず、できるだけ長期で株価を見ること
●利益は腹八分目で留めておくこと
●早耳(他人が知らない新奇な情報)は信用しないこと
●事前に企業業績を調べておくこと

定期預金の利子を参考に、株の売買を行う

ただ、こうした桃介式の株投資は難度が高い。本業を持ったサラリーマンがおいそれと出来ることではない。
そこで桃介が推奨したのが、定期預金の利子を参考にして株の売買を行う方法だった。

当時(明治末期)の定期預金の利子は5%から7%の間で変動していた。これを株売買の目安にするのだ(低金利の今は決して現実的な方策ではない)。
たとえば、12%の配当利回りをもつ株があったとする。50円で買うと、6円の配当を手にすることができる。この株の相場が上がり、120円以上になると、6÷120×100で5%以下となるから、売る決断をする。一方、そこから下がって85円以下となったら、6÷85×100で7%以上になるから買う。ただし、配当利回り自体も変化するから、多少はその数値も斟酌しなければならない。

これをやる場合、投資先の選定も肝心となる。容易なことでは潰れない、安全な会社を選ぶべきだ。桃介が推奨したのは、海運、鉄道、炭鉱といった基盤盤石な業種だった。

桃介はともかく相場が好きだった。こんな言葉も残している。「世間では相場で儲けた金をアブク銭だという。予はまるで反対だ。広くしては社会万般の事相を細心に観察し、狭くしては一会社一事業の状況に精密な考慮を加え、一挙足一投足もゆるがせにせず、そして勝ち得るのが、すなわち相場で儲けた金だ。

これ実際に自分自身の作った金だ。銀行や政府に金を預けておいて、黙っていても、他人が儲けて割り前を寄こしてくれるのとは訳が違う。株や公債の利子はよし福沢桃介が馬鹿だろうが、間抜けだろうが差支えはない。金は向こうから来るのだ。これほど男らしくないことはない。これほど不愉快なことはない」(『富の成功』)
桃介は「棚から牡丹餅」という言葉も嫌ったことだろう。

料亭では車を呼ばない、雨が降ったら傘を買う

株で巨資をこしらえた桃介。さぞ豪快な散財をしたのだろうと思うかもしれないが、桃介は無駄遣いを決してしなかった。

たとえば、料亭を出る際には、そこで車を呼ばず、道路まで出て、流しの車をつかまえる。料亭のおかみに渡す心づけが浮くからだ。外出先で急な雨に遭遇したら、車に乗るのではなく、傘を買う。無駄な出費のように思えるが、傘は後日も使えるから、結局は得になる。食べ残しの駅弁は捨てずに家に持ち帰る。物は小買いに限り、買いだめはしない。財布には少額しか入れず、衝動買いを防ぐ……等々である。成功に必須なこととして、「倹約」を説く。

サラリーマンには金を貯める秘訣として、給料天引きによる貯蓄を奨めた。
とにかく「金を愛せ」が口ぐせだった。「士は己を知る者のために死し、女は己を愛する者のためにかたちづくるとある通り、愛は万物を吸収する。金も無心に見えてその実、有心だ。金を愛するがゆえに金が集まるのだ」(福沢桃介『財界人物我観』)

形式的な儀礼にとらわれるな

桃介のユニークなところは、初対面の他人にも無駄遣いを戒めるような言葉を吐いたことだ。

義父、福沢諭吉の生まれ故郷である大分県中津市に福澤記念館が建てられることになり、中津市長から、開館日に式典を挙行するので、福沢家を代表し、ぜひご出席いただきたい、という招待状が届いた。

桃介はちょうど時間があったので、承諾して出かけた。東京から大阪へは汽車で移動し、一泊する。翌日、大阪からは船に乗り、瀬戸内海を渡って九州の別府に着く。そこでさらに一泊し、翌日は汽車で中津まで行ったところ、その車中で出会った紳士が「あなたはひょっとして福沢さんではありませんか」という。「いかにも」と答えると、その紳士は招待状を寄こした当の中津市長だった。

桃介はそれがわかると、あたり構わず、大声で、こう言ったという。「あなたから招待状でぜひ来てくれというから出てきましたが、ここに来る旅費だけで千円以上かかっています。それよりも、私に五百円寄付してくれ、と言ってくれたほうがどんなによかったか。そうすれば、私だって五百円助かりますし、あなた方にも五百円が入ってくる。福沢家の関係者を呼ぶという形式的な儀礼にとらわれたばかりに、お互いに五百円ずつ損をしたことになりますよ」
中津市長はあっけにとられ、二の句を告げなかったそうだ。

人に厚く、自らには薄く

ただ、桃介のケチは無駄を排するケチであって、己を利するためのケチではなかった。

名古屋電燈や大同電力の社長時代、自分の賞与はビタ一文もらわなかった。給料も賞与も、自分より重役陣のほうが高かった。東京と名古屋を頻繁に往復していたが、その旅費はいつでもポケットマネーから出していた。「人に厚く、自らには薄く」が信条だった。

1928(昭和3)年6月、桃介は実業界からの引退を宣言、大同電力の社長を退くが、その直前、自らの給与アップを役員会に諮り、実現させていた。前代未聞のことだった。周囲の人たちは、後に初めて合点がいった。給料アップは自らの後任者を思ってのことだったのだと。

最近、社費の私的流用で辞任を余儀なくされた上場企業の社長がいたが、桃介の爪の垢でも煎じて飲むべきではないか。

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