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宮台真司×野田智義『経営リーダーのための社会システム論」

謎の男から襲撃を受けた今話題の、東京都立大学教授にして社会学者、宮台真司の奉じる思想をわかりやすく講義&対話する形式で綴った本である。『終わりなき日常を生きろ』などで断片的に知っていた彼の思考の真髄に触れることができる良書である(もう一人の著者、野田智義は対話の相手、ファシリテーター、編集者という位置付け)。

「安全、快適、便利」なのになぜ生きづらいのか

社会の底が抜けている。宮台はそう日本社会を見ている(正確にいえば日本以外の世界全体もだ)。以前と比べて、交通事故も殺人事件も減り、冷暖房が普及し、誰もがスマートフォンを持ちいつでも連絡が取れ、24時間あいているコンビニが街のあちこちに溢れた。つまり、圧倒的に「安全、快適、便利」な社会になったのに、なぜ多くの人が生きづらさや孤独を感じているのか。言い方を変えれば、経済回っても社会回らずの困った状態になっているのか。

汎システム化とシステムの奴隷

その答えは「汎システム化」という言葉で説明される。商店や飲食店からネットサービス、医療・介護制度まで、すべての仕組みが「採り替えの利く人間」で運用されるシステムによって提供されている。結果、人々にとっては、人間的触れ合いが極端に減り、システムの奴隷になっていると(システムによって運営されていない人間的触れ合いのある世界を彼は「生活世界」と呼ぶ)。生活世界は地元商店的、システム世界はコンビニ的だと。

前半では、その汎システム化の実態と影響を、理論も織り交ぜ、生々しいデータや現実、象徴的な犯罪事件ととともに解き明かし、後半では、社会の統治者の立場から、あるべき社会と汎システム化への向き合い方、生活世界を取り戻すための、共同体自治を担う新しいリーダー像を探っていく。

ファシリテーター的リーダーを

そのリーダー像とは、企業で変革を起こしたり、業績悪化企業をV字回復に導くようなカリスマ型の経営リーダーではない、と宮台はいう(と言いつつも、書名に「経営リーダー」のための、とついているところが矛盾しているように思える。『リーダーのための社会システム論』でいいのでは)。

そうではなく、人々と人々をつなげ、各自が各自、仲間のために知恵を出し合えるように、その場をしつらえることができるファシリテーター的リーダーが必要だと。そうしたリーダーをたとえば、キャス・サンスティーンというアメリカの法学者は「(半地下の、間接的な)卓越者」と呼んでいるのだそうだ。

全員が納得いくまで話し合う寄りあい

ここまで読んで私が思い出したのが、日本の民俗学者、宮本常一の名著『忘れられた日本人』なのである。そこには日本の村の寄りあいのことが書かれており、宮本の実体験として、対馬を訪れた際、ある村人に、村に伝わる古文書を見せてくれないかと頼むと、「自分の一存では決められない。ちょっと待っていてください」と言われ、待っていたところ、一日経っても結論が出ない。事情を聞くと、村でとりきめを行う場合、寄りあいを開き、全員が納得いくまで何日でも話し合うというのだ。実際、古文書の件は2日で片付き、無事に中身を見ることができたという。

アメリカの法学者なんか引っ張り出さなくても、戦前の日本には、寄りあいなんてものはどこにでもあり、そこには、ファシリテーター的卓越者がごろごろいたのではないだろうか。

どうした?日本の民俗学

そう、この本に対する不満を一つだけ挙げるとすると、横文字の文献や資料が多すぎる。日本の昔にも思いを馳せてみたら、違うものが見えてくるかもしれない。

逆にいえば、それは日本の民俗学のだらしなさへにもつながる。柳田国男が偉いのはよくわかる。でも柳田にこだわり過ぎ、現代を見る視点が霞のようにぼんやりとなっていないか。その柳田だって、『明治大正史 世相篇』なんて、直近に目を向けた素晴らしい著作をものしているくらいなのだから。私の勉強不足かもしれないが、最近の日本の民俗学はぱっとしない。民俗学から考える日本の構造的問題、という本でも読みたいくらいだ。

宮台真司×野田智義『経営リーダーのための社会システム論」(光文社、2022年2月刊)








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