台湾料理屋で聞いたエピソード

これは、よく行く小さな台湾料理屋で聞いた話である。店を切り盛りしているいつもの夫婦はその日はおらず、代わりにそのお姉さんが立っていた。この話はお姉さんから聞いたものである。

私の父は1916年生まれ、初めは船乗りをしていた。
当時は石炭動力の船だった。アメリカへ渡航するときにコレラの流行が原因で上陸ができなかった。旅が好きだった父は悔しがった。
父が老いてからは、私が父を世界の旅に連れて行った。
旅を終えると、父が病に臥せった。
「これからも世界の遊びをたくさん知るか」
「広い世界を見て回ったこの先、つまらないことで怒ったりするか」
そう私に問うて、10日後に父は亡くなった。

父にはガラクタを拾う習性があった。
たとえば、3本足の机。足りない1本の足をつけるまではガラクタのままだ。
いくら叱ってもまた拾ってくる。家の隅にはたいていガラクタがあった。
あるとき、家の近くの交番が閉鎖になった。交番近くのゴミ捨て場に、警察のバッヂが袋に詰めて捨ててあった。もちろん父は持って帰ってきた。
そして先の世界旅行で南アフリカへ行ったとき、父はなぜかそれを持ってきていた。
南アフリカでは、路上に土産物などの露店が出ていた。木彫りを売っている露店商に話しかけ、言葉もあまり通じない中でバッヂを差し出した。
露天商は物々交換はしないといって嫌がった。しかし父は木彫りがほしいのではなかった。バッヂ、いや、ここではもうその意味をなくした謎のブローチを他人にあげたかったのだ。
その後でレストランに入った。こういったところでは給仕の人たちはさほど熱心に客のところに来ない。しかしなぜだろう、今日はやたらとコーヒーや紅茶を勧めに来る。ひっきりなしに来る。そして給仕は声を落としてささやく。
「ブローチ?」

父は阿波踊りが好きだった。別に習っていたわけではない。家から少し離れた町でやっている阿波踊りのお祭りも、見様見真似でよく踊っていたものだ。
ハワイでクルーズ船に乗ったとき、父は欧米人が社交ダンスを踊る真ん中で、ソロの阿波踊りを始めた。
阿波踊りの熱は一気に船内のダンスホールに広がった。本物の阿波踊りを見たこともないはずの欧米人が、見様見真似で阿波踊りを始める。曲と合っていようがいまいがお構いなしだ。その日、父はダンスホールのスターになった。

私はといえば、この町でこの店とは別の店を、駅の北口に構えていた。
店を開いたのはバブルのときだった。立ち退きで店をたたむまで約30年やっていた。10人ちょっとの席だったろうか。リュックひとつで旅する若い人たちがよく集まっていた。
お客さんにはいろんな人がいた。景気のいいときだったから、有名企業の入社を蹴って、生コンや飲料のドライバーをやっていた筋金入りの自由人もいた。
常連が結婚するといい、うちを会場に披露宴をしたときは楽しかった。3万5千円の予算で、近くの神社で式も上げた。みんなでスーツケースやビールのケースを持ち寄って椅子を作って店内にひしめき合って、誰かが持ってきた樽酒を、全く関係のない通行人に振舞った。
客の付き合いで失敗したのは、客の店で髪を切ったときだ。普通のパーマを頼んだはずがパンチパーマにされた。仕方がないからそのままの髪で店に立っていたら入ってきた客に「マスター」と言われた。他の客がそれはあまりに失礼だとその客を連れ出して、外でケンカを始めた。結局分かり合って店の中に戻ってきた。

いろんな客がいて、いろんなことがあった。そんな話がいつまでも続いた。
この話は聞いた話のごく一部だ。
私はその日、台湾料理屋で軽く夕食を済ませて早く寝るつもりだったのが、結局どれだけ話を聞いていただろうか、気づけば深夜になっていた。そしてなぜかスマホの設定まで手伝わされていた。

後日、またその台湾料理屋に行くと、その日はいつもの夫婦が立っていた。
この間お姉さんに会いましたよ、というと、ああそれは気の毒だったね、あの人、喋ってばかりで手が動かない、全然料理出ないからお客さん可哀そう、と言われた。
さすが姉妹、まるでその目で見たかのように的確だ。
でもスマホの設定まで手伝わされたのはさすがに知らないだろう。

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