悪意

 今を遡ること10年前まで、私は人に対して悪意を持つことが少なかった。逆に、人から悪意を向けられないように立ち回って生きてきた。そうした生き方は、決して心弾むものではない。予想される展開を想定し、いかに円満に解決させるかに心を砕く。善意という名を借りて、本来人がやるべき作業を片付けていく。その結果、表立って人から悪意を向けられることはなかったが、次第に自分自身が虚ろな存在になっていった。今でも、そのころの金曜日に自室に戻ったときのことを覚えている。土日の食料を廊下に下ろしながら、ああ、これでしばらくは自分に戻れる、とへたり込んだことも二度や三度ではない。そして、休日は自室から外に出なかった。

 その後、人生における紆余曲折があって、今ではすっかり人に対して悪意を持ちながら生きている。私が、人に対して悪意を持つ場合にはルールがある。それは、他人から邪を向けられた場合に、それに対して悪意を持つというものだ。邪は、大抵の場合、鈍く黒ずんだ光を放つ。他人からの言葉や、態度、視線に含まれた邪は、やがて形づくられていき、私を害する。害された時点で、私はその邪の相手方に悪意を持つという寸法だ。

 昔であれば、その邪の背景を探らずにはいられなかっただろう。何故、自分がそのような邪を他人から向けられなければならないのか。その原因は私にあるのか。自分のある属性がそのような感情を引き寄せるのか。しかし、今の私にはそこまでの余裕はない。また、他人に邪を向けて平然としていられる連中と、仮に話し合いの機会を持ったとしてもわかりあえるはずなどない。その時間こそ、人生の無駄だ。

 他人との悪意と同居しながら生きていくことは決して楽ではない。今思うことは、その連中の身に何かがあったときに、ようやくその悪意を手放すことができるということだ。人に悪意を持つということは、他人から悪意を持たれることでもある。でも、仕方がない。他人から邪を向けられながら、愛想を振りまくことは不可能だ。シンプルに考えると、殴られたら殴り返す。蹴られたら、蹴り返す。相手が私に手を上げたことを後悔させるだけの威力をもって。

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