愛に関する雑考察
出典元であるプラトンの饗宴の中に、愛についてこのような指摘がある。本来人間は統一された一つの存在だったが、度重なる神への不遜により、それが男と女の二つに分断されてしまった。私たちの目的はその魂の片割れを探すことであり、それに恋という名前が付けられている、という記述。この書の中のテーマは恋(エロース)である。
ラカンの著書、エクリに関する記述。産まれたばかりのまだことばも知らない赤ん坊は自分と母親の区別がつかない。それはさながら「原始のスープ」の中にあるような状態である。赤ん坊はその段階からどのように自我を発達させるのか、つまり、自分と世界とをどのようにして区別できるようになるのか?という話。(自我の芽生えには象徴的ファルスであり小文字の他者aにあたる父という存在の介入があり、その際に生じるエディプスコンプレックスの話や鏡像段階論なんかの話もあるが割愛)
ここでいう「原始のスープ」は、「アンドロギュノス」に限りなく近い概念なのではないか。(わかりやすい例で言えば、新世紀エヴァンゲリオンの人類補完計画があげられる。自他の境界を失い、自分の体を失い、他者を拒絶するあらゆる輪郭を無視し、「一つになる」ことこそ、人類の目的だ、というような話)
また話は戻るが、この「原始のスープ」の解消の足がけとなるのは「ことば」である。象徴を手に入れることは存在を諦めることである、と斎藤環は「生き延びるためのラカン」の中で述べている。
連続性についての話。私たちは本来連続する存在である、というこの記述は、アンドロギュノスや原始のスープと似通った思想である。
愛は同化か、別離か?
結局のところ、愛とは同化なのだろうか?
結局ラカンの言う対象aとそれへの同一化の願望は捨てきることが不可能なわけで、そのラインの侵犯欲求こそが愛の本質なのだろうか。バタイユの連続性しかり、つまるところ『原始のスープ』に還ることが人間の本能的な願望だとして、しかし発達段階でことば(signifiant)を手に入れてしまったせいでそれが永久に不可能になってしまった。だから郷愁に基づく表象は尽きず、いわゆる『完璧な詩は到来しない』という状態にある。「ロマンティックたりない」の状態。
愛とは名詞的に捉えるよりも、「欲しがっているという状態」として定義した方が理解に易しい。完璧な一つのピースも一遍の詩も永遠に手に入ることはない。私たちは一つになれない。その約束の下でのみ人を愛することができる、私があなたでなくあなたが私でないと言う不変の事実が、私を救いも、傷つけもする。ということなんだろう。
余談①バタイユが活躍した時期、フランスではファシズムの動きがあり、こういった共同体の意義を解くような記述はファシズムの扇動として指摘された。また、三島由紀夫は、「われわれが今ニヒリズムと呼んでいるものは、バタイユのいわゆる「生の非連続性」の明確な意識である。」と述べており、今の世の中に照らし合わせると三島のいう冷笑的な態度が個人主義の名の下で蔓延しているように思う。どうせ一つになんてなれないのに、ばっかじゃないの、どうせ死ぬ時は1人なのに…みたいなスタンス。
余談②つまりロマンティシズムって言い換えれば郷愁なのではないか。今ないものを追い求める姿勢には、今手に持つものに影を落とす手に入らなかったものがつきまとう。それらについてどこかで「かつて自分と連続だったもの」という意識がある、というような。ロマンティシズムやロマンチストはこの永久の渇望から脱せていないという点で、リアリスト達に散々バカにされるが、現実界も象徴界も想像界も独立して存在している訳じゃないんだからあまりにも短絡的ではないか。
まじで書き殴りです
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