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領地宛行状(りょうちあてがいじょう)


家康の天下取りに15年かかった理由

関ヶ原の戦いの後家康の政治的、軍事的武威のもとで天下一統は維持されながらも、現状の体制下での主君は秀頼だった為、諸大名との主従関係を固めるまでにはできずにいた。
現状はやがて天下人になる事を前提に君臨する秀頼と実質的な天下人である家康が併存している状況だった。
関ケ原の戦いの後の戦後処理を進めていった家康は慶長5年(1600)
10月石田三成、小西行長らを京都で斬首
毛利輝元、長曾我部盛親など反徳川勢力を減封や改易していった
徳川諸将に加増してその領地宛行状(りょうちあてがいじょう)
を出すに至っていない。
家康が豊臣体制の執政役であるため書状としてきちんと出せないでいた
家康は慶長6年(1601)伏見城に政庁を映し秀頼のいる大阪城
とは一線を引き伏見城で徳川幕府としての政をおこなう。


㈤大老㊄奉行の崩壊

豊臣体制は関ヶ原合戦の後五奉行、五大老の解体で機能は止まっていた。

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