自分にとって都合の良いときは信じ 不幸が身に及ぶと信じなくなる御利益信仰
小説 十字架の女①②が発刊され 発刊記念対談のご法話拝聴に行って思ったことです。
いつも 信仰について考えるときには 旧約聖書のヨブ記を思い出してしまいます。
私は幸福の科学の信者で クリスチャンではありませんが 若いときに聖書は通読しました。そのなかで 非常に印象に残っているのがヨブ記です。
信仰者であるヨブを試そうと 悪魔が様々な試みに逢わせます。悪魔は神様にヨブが信仰を守っているのは ヨブが恵まれた環境にあるからであり それらがすべて取り除かれたら信仰を失うだろうと言います。神様な悪魔がヨブの信仰を試すことを許されます。
財産を失い 子供ちを失い 病に冒されるという不幸が次々身に及ぶなか 最終的にヨブは信仰を手放しませんでした。
キリストの十字架の意味もそうですが 日本神道では やはりこういった悲劇と信仰はあまり結び付かず 日本神道の文脈で言えば イエス様の立場は祟り神として祀られる神様になってしまうのではないかと思われます。
日本でキリスト教信者が増えなかた理由に 神様は恵みをもたらし 利益を与えてくださるものだという深層心理があるので 不幸を与える神様は信じられなかったのでしょう。
幸福の科学で 長年籍を置いてみて離れてアンチ活動をしている人を見ると日本神道的な意味での信仰を持っていたのではないかと思うことがあります。ヨブのような信仰ではなかったのでしょう。
私は いろいろ起きてくる事象が信仰を揺るがすようなものであったときに いつも、このヨブ記が繰り返し繰り返し思い起こされるのです。
ヨブの物語は我々にも当てはまるのでないかと思います。
小説 十字架の女は キリスト教的な色彩が非常に強く、ヨハネの黙示録を彷彿させる、非常に衝撃的な内容で フィクションの形を取らなければ とても怖い内容でありますが 人類の未来を考える上で多くの方に読んでもらいたい一書です。
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