『永遠の京都』で 大川隆法総裁が伝えたかったことは 何だろう


2022年の7月7日以来 ほぼ2ヶ月 エル・カンターレの説法は 小説の背景を語る対談を除いて 無くなっています。

説法を頂く事が当たり前のように思っていた私にとっても 或いは 他のお弟子さんたちにとってもかもしれませんが、仏の沈黙の意味を 
深く考える期間を与えられているのかもしれません。

当たり前なものは何もない

仏の説かれる法のひとつひとつは、愛であったことを

忘れていませんか と問われたような気がしています。

幸福の科学の信者は 大川隆法総裁を 「主エル・カンターレ」「地球神」と伝えられています。

でも 信仰を持たない 外部の人に伝道しようとする時 日本の弟子たちは 

人間を 神様扱いしてしまう新興宗教はおかしいとか

宗教ビジネスだとかという批判にも直面してしまう。

だからなのでしょうね。大川隆法総裁の若い時代の浪人時代の頃の挫折体験等を公にして欲しくないという気持ち、普通の人として生きた時代を消したいのかなと思います。

これは キリスト教にも起きたことです。イエス様の大工の息子としての人間としての姿は新約聖書には一切出てこないのです。2000年経った今 イエス様の処女降臨説もキリスト教徒は受け入れていますが 同時代にイエス様の近くにいた人々にとっては どうだったのでしょう。

でも 大川隆法総裁は「平凡からの出発」や「凡事徹底」「謙虚さの底力」等の 「人として」の努力を続ける大切さを説かれる。

人類の創世記から メシアの法 宇宙の法まで壮大な 教えを説かれている一方で 人としての 毎日毎日の努力や精進を大切にしている。当たり前の事を当たり前に続けることの意味を説かれる。

この意味を 考えたいと思うのです。

私達、弟子たちは すぐに出来上がってしまい 少しでも、守護霊の言葉が聞こえるような霊的な覚醒を得たら その後の コツコツとした 心の修業を忘れてしまう人もいるのではないかと思います。

 お子さんとして生まれたり 過去世にそれなりに名のある菩薩や天使だったような方であっても、その後の悟りの後に まだまだ続く悟りの道があり 無限に修行が続くことを忘れてしまって 菩薩や天使だから 人の尊敬を受けて当然だし それなりの立場に無いとおかしいと考えるような人もいるのかもしれません。

私が 学んだのは 過去世で どれだけ立派だと言われていた魂であっても 今世は今世で また別の修行があり 今世の実績が出ないうちは まだまだ本物になっていないということです。

過去 いくら 偉い人であったとしても 今世に努力精進を重ねなければ その悟りも後退してしまうし 仮に出自が天使でも 堕ちて悪魔の手先のようになってしまうこともあるということです。

大川隆法総裁は 転落しない為の道筋を示されているのだと思います。

また 人として生きることで 人間として肉体を持つ者が 感じる喜びや楽しみ 哀しみや苦しみ 有限性の中に閉じ込められ 魂本来の自由を奪われている 人間を 高いところから見下ろすのではなく その人間世界に身を投じて 人として生きていく中に本来の使命を自覚していく、 神仏の心を見いだして悟っていくことの意義を教えたかったのではないかと思えるのです。

東大の法学部 商社マンといった現実的にこの世的にはエリートとされる青年が 霊界からのメッセージを受け取り 仏陀であり 地球の歴史に責任を持つエル・カンターレだと告げられる。

それまでの合理的常識的な世界を生きていた人には受け入れがたく人に理解してもらうのは困難だったと思います。身近な人との多くの別れを体験されてきたと思います。

 この世的に約束される幸福な生き方を捨てなければならない厳しい選択と葛藤もあったのです。

30歳で商社を辞し宗教家として立たれるまでの 6年間の間には 釈尊の降魔成道にあたる経験や イエス様の悪魔の試しのような経験をされています。


この映画では 京都時代は入っていませんが 普通の人間として 最後に残る執着と葛藤を 去って救世主として立つ姿が印象的でした。







人類の為、人類を生かさんとする慈悲の心の顕れであったのかと 考えを新たにする時間でもありました。

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