全体主義によって地獄が作られるのを見たハンナ・アレント

大川隆法思想の源流 ハンナ・アーレントと自由の創設を読んでいますと、

思想を一元化し 異論を許さないという全体主義が地獄を作り出すことが理解できました。

身近な例で 私に思い浮かぶのは ワクチンに関しての言論です。

ワクチン全体主義

ワクチンに関しては リスクがあるとあるという免疫学者やウィルス学者 医師の声は 封殺されて 一般のの国民は 一方的な情報しか得ていませんでした。

国民の側も 自分で調べ考えるということを放棄して 上から下りてくる指示にただ、従うアイヒマン的思考に陥っていたのではないかという気もします。

ワクチンに関しては、医学的な判断というよりも 最初から、政治的な 全体主義になっていたと思います。

職域接種や 打ちたくなくても接種をしなければならない職場、看護実習を受けることができない学生など 厚生労働省は任意と言いながら 事実上は強制接種が実態です。

自由が失われていく社会。

 人をコロナから守る 大切な人を護るためという 誰もが 反対しにくい スローガンで入ってくるので 日本人はなかなか逆らう事ができません。

アレントの霊言を読むと

私の全体主義の分析だって、基本的に要するにこの世の地獄を現実に見たからね。「こういうかたちでこの世に地獄を作ることができるっていうことを、「全体主義によって地獄がつくれる」っていうとを見たからね。「これをどうやって防ぐか」「考え方によって、これが防げるか」っていうことを提示しているわけで。

全体主義によって地獄がつくれる

これを 考え方によって防げるか

これが ハンナ・アレントが 全体主義の起源を書いた理由でした。


それで、やっぱり、「労働が正しい」という思想の下に政治を作ったら共産主義にしかならなくなるので。「そうじゃないんだということで『活動』を中心にしたした自由の平野を拓く政治が必要なんだ」と言っているわけですね。その先にあるものは、神の持っている神聖なものですよ。それは 修道院にもある「観照的生活」が上にあることは知っていますよ。ただ、政治にそこまでもとめるのは厳しいとは考えていますけどね。市民のレベルで考えるべきだと思うから。


労働が正しい っていう部分は 少し分かりにくいのですが 人間の活動を 

①修道院で神と対話擦るような 観照的生活      ②  自由に議論できる人たちか話し合い政治に参加する活動的生活力

③付加価値を生む仕事

④日々消費される単純な反復な労働

といったように4つの領域にアレントは考えていたようです。

この「労働」を中心に政治を組み立てたならば 共産主義になってしまうということを言っているのだと思います。労働は 私的領域に属するものなので 自分の賃金を上げて欲しい 環境を良くして欲しいといった 個人的な欲求レベルから政治が始まります。

ワクチンに関してですが 、本来であれば ワクチンを打つ 打たないは個人の自由の範囲内にあったはずです。私的な領域に入る部分だったと思うのです。

ところが、

 打つ人と打たない人の間に分断が生じて 、打った人は、ワクチンを打たない人が感染を拡げていると思い込み、ワクチンに反対する人を陰謀論者だと決めつけました。

反対に、ワクチンを打たなかった人は ワクチンを打てば打つほど感染が拡がる上に打った人からのシェディングで体調が悪くなっているという訴えも出ています。

   どちらも 生命を護りたいとい 健康を護りたいう気持ちなのに 行動が真逆になるわけです。

異なる意見を 認め、その言論を尊重するというのは 自分の生命に関わる局面に遭遇すると難しいのかもしれません。TVでコロナ感染に対する恐怖を煽られ続けた人と ネットでワクチンの危険性を知った人との間での分断が起きました。

本来は もっと考えなければならないことも他に有ったように思うのです。

「この世に現れた地獄」を私は批判したんですよ。「この世の地獄は何度でも起きることだ」と言って。だから、ウィグルに起きた地獄、チベットに起きた地獄、香港に起きようとしている地獄(注:この収録は2019年4月7日に行われています)                                      「 これは何度でも起きるんだ」ということを言っているので。
その分析手法を教えているんだけど、そういうことを、要するに…神学性が無い人は、「この世の地獄」は意味が分からない。分からないんですよ。


日本人は 中国で 現実に起きていることに無関心のような気がします。ウィグルの強制収容所等の話を創価学会の友人に話した人が 「お隣の国とは仲良くしなきゃ」という反応でガックリしたそうです。

実態が知られていないのでしょうし、おそらくは知ろうという気もないのかもしれません。

香港で起きたことを クリスチャンだという知人に話したときも 「そんなことより もっと 楽しい話題をしましょう」と提案されました。

信仰を持つという事が 日本では 生活の便利のためであったり 何かちょっとした飾りのようなものになっているのではないかと その時感じました。

信じる神の名前は違っていても、神仏を信じる人達が 弾圧され、拷問を受けて 共産主義思想しか学ぶことができず 強制収容所に入れられているという事実。

 信仰を持つ者としてどうして平気でいられるのでしょう。

この世の地獄は 着実に拡がりつつあるなかで 私達の心の中に神の光を灯して 立ち向かうことは できるのか… 仏の愛や慈悲の教えを多くの人心に届けることが出きるのか  …

自由を護ると言うことが 時に命懸けであるということを 日本人は 今 忘れているのかもしれません。



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