エル・カンターレの臨在を感じた…

聖書の中にも エル・カンターレの姿を感じた私。

以前にコメントをいただいた方から聖書のお話が出たので 聖書を購入し直して読み返してみました。

聖書は 本棚から本が溢れ出した為 一度手離してしまったので手元にはなかったのです。

30年以上前 まだ幸福の科学に出会う以前

私は 街頭アンケートに答えたのがきっかけで統一教会の人に伝道され、
同時期に 妹は、職場の先輩から
ものみの搭 (エホバの証人)の人に伝道されていました😅

18、19の時で 父もその時期に亡くなりましたので 姉妹2人だけになった頃でした。

それだけに 何か心の拠り所を求めていた時期でもあったのだと思います。

どちらも キリスト教ということで(私たちはそのように当時 理解していました)聖書は 2人とも読む機会が多かったのです。

統一教会は、書店でも購入できる普通の聖書を使っていましたが ものみ搭は 旧約聖書は文語体の聖書を新約聖書はものみの塔独自の聖書を使っていたと思います。

それで 聖書は一通り読んではいたのです。

後年 幸福の科学が設立された時に なぜこの教えがもっと早くに出てきてくれなかったんだろうと思うことがありました。

まだ ごく若い時期に 「死」を間近で経験したので 人は死んだら、本当に存在しなくなってしまうのだろうかという根源的な問い掛けは 心の底には常にあったのだと思うのです。

死とは何か
生とは何か
人はどう生きたらよいのか

その答えが 数々出てくる「霊言集」の中にあって、次の発刊を待ちわびて貪るように読んだものです。
霊言をイタコ芸など頂いたりと揶揄する人もいますが 本当に求めて読んだことがない人の戯言だと思うのです。

霊言はいつの時代 どの国にもありました。
神の言葉を預かる預言者という存在も常に地上に降ろされていたのです。

しかし、
自らを 仏陀と名乗る人
自らを救世主と名乗る人は
怪しいのではないかという思いや

途中でおかしくなるのかもしれない

と 信じきれなかったのは
統一教会での 経験があったからだと思います。


来るべき人は あなたなのですか

というヨハネの問い掛けは   私のなかにもくすぶっていた想いだったのかもしれません。


されど
次々に出されていく霊言と 法の厚みと 一貫して変わらぬ大川隆法総裁の姿に 次第に圧倒されていきます。

もちろん 運営の面での試行錯誤や 過去世認定などで後に修正が入ったものもあり
それをもってして 信じられないという人も出てきました。

しかし、

霊界探訪の難しさや 霊人が使う方便などもある事を知り、「 霊言」と「法」の違いも知るにつけ

この「法」は 信じられるものだと法輪が転じられる毎に思いは強くなっていきました。

信仰の勝利の説法の時だったでしょうか。

あなた方の前に立ちたるは
大川隆法であって
大川隆法でない
エル・カンターレである

と 宣言されたのは。

その言葉の意味を 30年以上考えてきました。

この地上で 肉体を中心に物事を考えていると肉体が「私」という「存在」だと考えてしまいます。
けれども 
本来「私の考えている事」が「私そのもの」であって 肉体は影に過ぎないのです。

エル・カンターレという存在が 
大川隆法総裁という仮の 肉体の姿を纏って
現れているのだと
そのように 私には思えたのです。

仏陀を見る者は 法を見る
法を見る者は 仏陀を見る

という言葉が 本質を語っていると思えました。

説かれる法が 本当のエル・カンターレの姿。
人々に法を伝えるには 肉体を持つ必要がある。

人間として 肉体を持って生きることで 地上で生きる人達の悲しみや喜び苦しみや悩みを同じ様に経験されることになります。

 2000年前 2500年前の、イエス様やお釈迦様の教えだけでは現代の人々への悩みには答えきれなくなった今 

地球が宇宙時代に入ろうとする今

大きな時代の転換期の今

新しい法を説く為に地上に降りられたのだと思っています。

不思議な事に
聖書を読み返していくうちに 私は 幸福の科学で出会ったエル・カンターレという存在の痕跡を感じるようになりました。

中東の地でエローヒムと呼ばれた存在が、エル・カンターレでもあります。

いつも  いつも 地上に 預言者を送り
人類に指針としての言葉を与えていた存在。

神は 沈黙などしていないのだと
聖書を読んで感じました。

そして いつも その声を 蔑ろにし続けてきたのは人間の側であったのだと思います。





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