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信仰における無謬性の罠

絶対に失敗しない
絶対に間違わない
絶対に正しい

ということを 肉体を持っている人に求めると
大きな悲劇を招くような気がします。

この地上に生まれるということは、
失敗や間違いが無いと言うこではなく
新たな環境
新たな経験のなかで
そこでも ユートピアを築いていく方向で
努力していけるかということなのだと思います。

初期の頃から幸福の科学を見ていると、
大川隆法総裁が 運営面に関して等
失敗だったと語られている部分は
数多くあるように思います。

これを 神様なら
間違うのはおかしいだろうと
単純に言ってしまうのは簡単です。
神様だと信じているなら
絶対に失敗するなんて考えてはダメだと
言うような頭の硬い人もいるでしょう。

いろいろな出来事をくぐり抜けて

30年以上に渡り それでも 信じていると言えるのは何故か、考えてみたいと思います。

生身の肉体を持って人生を何十年か過ごし、信仰深いとはいえない家族のなかで過ごすなかで感じた疑問と、
周囲がすべて信仰のある人々に囲まれたなかで 生まれ育ち  アンチ情報に触れて疑問を持つのとでは かなり違いがあるのだと思います。

初期の頃 講師の方を呼んだ 100人程度の勉強会に参加した時 質問をしました。

信仰は100%でなければならないとも聞きますが100%でなければならないのでしょうか?と。

当時 私は100%の信仰を持つことなどは出来ないと思っていました。
講師の方は95%や99%ではダメです。信仰は100%でなければなりませんと答えられたと記憶しています。

ところが、その2、3年後には その講師の方は退会されてしまいました。
私は考えました。

結局、100%の信仰というのは どういうことなのか?
信じる対象に100%の無謬性を求め、100%の完璧性を求め それが 自分の考える理想像と少しでも違っていたら0%になってしまう。

それは、どうなのだろう? と思ったのです。

大川隆法総裁の
常勝思考という書籍があります。

幸福の科学の教えに 神様の心を探求する、正しき心を探求するという考えがあり
「愛」「知」「反省」「発展」の4つが人類を幸福にする原理であるとされています。

常勝思考は反省と発展とをつなぐ理論として説かれています。

物事の明るい積極的な面を見る「光明思想」というものもあるのですが

実際前向きに、前進的に、生きていたときにつまずきというのはあります。みなさんも過去にあるはずです。私もあります。つまずきもあったし、失敗もありました。そのときに「こんなものは気にしなくていいのだ。」というだけで、ほんとうにいいのでしょうか、という素朴な疑問があるわけです。

とにかく進んでいればいいのだ、前を向いていればいいのだ、という考えで、転んでも、失敗しても、「こんなものは気にしなくていいのだ。とにかく明るくいこう、人間の実相は光なのだから。」という考え方なのですが、はたしてそれだけでいいのだろうか。そんなに単純なものなのだろうか。人の心、人間の心というものを探求してきて、それだけですむものでしょうか。みなさんがお題目のように、そうした同じ考え方のパターン持って、それだけで進んでゆけば、それでいいのでしょうか。そうではないでしょう。それぞれの心のなかに深いひだがあるでしょう。深い考え方があるでしょう。その深い考え方のに即した、深い思想というものがあってもいいのではないでしょうか。

信仰を持っているから完全無欠で失敗等しませんでした。
というように生ききれる人は
素晴らしいのでしょうが心には響いてこないことが、あります。

ただ 多くの人の前に立ち 組織で人を教える立場になると そういう失敗談を若い人たちに語ってあげるこことが少なくなってくるでしょう。

失敗や人として欠点にも見えることも
見せて上げないと 後から来るものは
自分自身の問題にぶつかったときに
自分の頭で考えて解決していくことは出来ないのではないかと思うのです。

大川隆法総裁先生が 自伝小説「鏡川竜二」シリーズ 「永遠の京都」のあとがきで
城南高校を卒業された後に京都の駿台予備校時代を書くことを嫌がるような空気が弟子達の間にあったことに触れています。

京都時代については過去何度か話したことはあったが、一度も活字化されていない。
 宗教家の書く物として、出し難いものが弟子たちの葛藤としてあったのだろうと想像している。しかし、本書もていねいに読めば、宗教家・大川隆法誕生の序章であり、幸福の科学の基本思想の一部が、すでに出現しているものと思う。登場人物は、予備校講師の何人かを除けば、仮名にしたが、実在の人物であり、ストーリーも、ノンフィクション+宗教的真実が90%である。天狗さんたちの反発を予想して、作品化されなかった物語が、ついに刊行された。
伝道に不利になると考えた方もいたろうが、「情」のない宗教は人の心に届かない。この『小説 永遠の京都』は、後世への最大遺物の一つである。釈尊に、身分なき出家の六年の苦しみがあり、弘法大師・空海に大学を中退して後、九年間ぐらいまでの山野での修行期間がある。イエスキリストの三十歳までは謎のままになっている。聖書編さん者たちが削ったものと思われる。ー中略ー自分自身の筆で、その時、何を考え、どう判断したかを書ければ、孫たちの時代にも読まれる物語になるだろう。


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