不滅の知性 不滅の力

正心法語のCDを枕元にかけながら、休んでいます。心境によって入ってくる言葉が毎日違います。


いつもは 聞き流していた言葉が 今日は心に深く入ってくるということがあります。

今日は この言葉でした。

霊とは不滅の知性なり

霊とは不滅の力なり


私たち人間の本質は 霊であり、私達の人間の本質は不滅の知性、不滅の力。

なんて力強い人間観なんだろうと思うのです。

神の子であるということは、 本当は神の性質を内在していて 不滅のエネルギーを有しているということなのに

普段の私達 人間は、その力に気がつかずに、宝物を捨て去って、ガラクタばかりを拾い集めて喜んでいるのではないかと ふっと思いました。

肉体の力が強いときには、日常の仕事を あれもしなきゃ これもしなきゃと 雑事に追われているうちに 浮かんで来たかもしれない想いもすぐに忘れてしまうのだけれど

寝込んでいるときには霊的世界に近づいているのかもしれませんね。

宗教の世界には 神人隔絶説と神人合一説の二つがあると聞いたことがあります。

キリスト教は 神人隔絶説なのかな?日本神道は神人合一説なのかな?

私は幸福の科学で エル・カンターレが地球神だと 信じるようになりました。

でも そんなに 簡単に信じるようになったわけでもありません。

幸福の科学ができてから お子さんでさえアンチ活動しているくらいなので これはどういうことなのかと悩むこともありましたけれども、結局どちらを信じられるかと考えて 心のなかの声を聞いてみると 大川隆法総裁先生の言葉の方が信じられるのです。

生きている人間の立場から 悟りを開いた方が仏陀と呼ばれます。

釈尊は人間であったのか、神であったのか?

久遠実成の仏陀という言葉があります。法華経が一番尊いと日蓮聖人が言われたのは、この久遠実成の仏陀として仏陀を捉えていたからでしょう。クリエイター 創造主と久遠実成の仏陀は同義なのだということだと思います。

そして、私達人間は その創造神の光の粒子の一粒 その意味では神人合一かもしれません。
けれども、 私達人間は 神ではありません。遥かに大きな大きな存在が神であり、私達が現在の霊的進化の状況で神を名乗るは非常に傲慢不遜でもあります。その意味では神人隔絶かもしれません。

神人合一説は 浅い悟りで満足する人間が使うと 天狗世界に通じたり、時には悪魔の教えになってしまう畏れがあるように思います。

一方で 神人隔絶説では、人間は謙虚にならざるを得ません。大いなる者の前に小さな自分を発見し 神に頼み、委ねる気持ちで祈ることになります。計らい心を捨て去って、他力の光が臨むような無私、無我の心境になっていくのでしょう。

私が理解できる範囲内では 神人隔絶説の方が宗教的な感じもするのですが、全てを神様にお任せして 人としての努力も丸投げにしてしまう要な側面も ひょっとしたら出て来るかもしれません。神様のお告げだから 全部信じるといったような…

それもちょっと違うと思うのですね。

神人隔絶説と神人合一説の架橋になるものがおそらくは 八正道の教えや六波羅といった修行論なのでしょうが これとて 根本仏に至るまでのものではなく、 方便なのかもしれません。
ちょっと調べてみました。

やはり 神は遠い存在 けれども 私達の心のなかを深く見つめていくと 繋がっていく存在とも思えます。

この地上で楽しく生きているとき 、肉体生活が全てだと思いそのなかの幸福で満足しているときには 見えない世界なのかもしれません。


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