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幸福の科学の霊言と法の違いについて

2014年に 幸福の科学は大学設置審議会の審査で 霊言がネックになったのか審査を通りませんでした。

幸福の科学は霊言から始まっていますが、けれども 霊言そのものが教義ではありません。
霊言は あくまでも あの世があり 霊界があるという存在証明のために出されているのだと思います。

霊言は あくまでも 参考教材のようなものであり、大川隆法総裁先生の 説法 毎年出される「法シリーズ」が 大川先生の思想になります。

霊言を出さずに 自らの思想だけで発信されたら良いのに

という出版界の方からのお声もあったりするのですが、

幸福の科学が 出発した当初は霊言に価値があるのであって 著者の思想には価値がないという扱いで 根本経典のひとつ「太陽の法」の原稿は 放置されたままだったというお話を聞くと隔世の感があります。

大学申請をしていた頃の 霊言に対する世の中の考え方に対して
大川先生が

フランス料理のフルコースを出しているレストランで 街の定食屋ですか?と言われているような感じがするといった事を話されています。

キリストやソクラテス、孔子の霊言が 巷の霊能者や恐山のイタコさんに降ろせると思われているのですか ということです。

過去の偉人 聖人と思われている方々は 決して消えてしまったわけでなくて 今も存在して働きかけている 、言葉を伝える事ができる人がいるならば その考えを 現世に生きる人たちにも伝えたいと思われている方々がいらっしゃいます。

けれども 波長同通の法則で いくら 霊的世界から発信されても その通信を受け止めるには 発信された方と同じ波長に合わすことができなければ 受けることができないのです。

如来や 大天使と言われる方々の通信は 通常三次元に降ろすことは難しくて 中継ぎの霊を必要とされたりするようです。

 霊言は あくまでもその霊人の考えであって、その中から 汲むべきものや学ぶべきものがあるから 出されているのであって 大川隆法総裁の考えとはかなり離れたものもあります。

初期に出された ニュートン霊示集等はそうでした。

霊言 =法 ではありません。
大川隆法総裁先生の説かれる説法が大切なのです。
それが 法となって遺っていくのです。

説法が宝の山なのです。

幸福の科学の出発点において  霊が 本物かどうかは 時間をかけて検証されていたようです。

霊能力は 悟りに付随するものであっても、悟りそのものではないということを 初期の段階から繰り返し 説法の中で聞きました。

世の中で宗教者が 間違った方向に行ってしまうのは 神様の声が聞こえた ということから自分は偉いのだと思い上がってしまうところにあるようです。

悟後の修行が永遠に続くということを知らずにそこで慢心してしまうと  最初は 天上界からの通信であったものが、 いつの間にか魔界からのものにすり変わっていくことも教えられました。

霊能力を持った 霊界から通信受けたという状況は その後の心の修行を怠ると とても危険なことに繋がります。

幸福の科学では 英語学習などの語学の学習やこつこつ地道に努力することを教えられますが、
霊界ばかりに関心を持ちすぎて
おかしくなったり 霊に翻弄されたりしまわない為には
知性や理性を磨く、仕事能力を高める、といった事は大切なのです。

修行者が 転落してしまうのは 慢心で 簡単に出来上がってしまうことです。悟ったと思った段階からまた登らなければならない道が続き 学び続けないということを知らないと 
その瞬間から転落の道を転がり落ちてしまいます。

宗教者であっても  自らが

衆生無辺誓願

という 多くの人を悟りの彼岸に渡すのだと
愛の思いで 頑張ったとしても
もしかしたら 自分が道を誤っていたら大変なことになります。
他の人を巻き込んで間違った方向に導いてしまうからです。

その為には絶えず 自分の心の中から出てくる
貪・瞋・癡・慢・疑・悪見 という煩悩から離れる必要がありますので

煩悩無尽誓願断

ということを 八正道を通して点検せねばならないのだと思うのです。
慢心してしまうの 本当に 危険だと思います。

さらに、多くの人の悩みに向き合い、救う道を歩もうとする修行者は その人に応じた薬を処方できる医師のように 応病施薬ができないと いけませんから 仏の教えを無量に学ばなければ対機説法ができないと思います。
この教え1つだけが正しいと押し通してしまっては
多くの人々を理解できないし理解もしてもらえません。だから

法門無量誓願学

が大切になってくるのですね。

仏の教えを どこまでも多く学ぼうという意志ですね。

仏道修行誓願成

そして 修行が成就するように ということで
四弘誓願があるのかなと思います。
仏道修行が成就するのは 一体 幾転生しなければならないのかはわかりません😅
一回のこの世の人生経験では無理でしょう。

そういうわけで、
仏が降りて教えを説かれる
直説金口の時代に同時に生まれ合わせるということは
三千年に一度咲く優曇華の花を見る如く
盲亀が浮木に辿りつくが如く
大変な貴重で有難い時期だということです。

エル・カンターレの教えを学ぶというのは こういうことなのだと 拙い頭で理解しています。


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