天国・地獄を分けるものは簡単です。自分で自分の責任を認められるか。自分の責任と思わずに他人のせいや環境のせいにするか。選択肢は単純なこの2つなのです。

1990年11月23日
沖縄コンベンションセンターで
大川隆法総裁先生が された説法
押し寄せる愛の大河のなかの一説です。

すべて 自分の責任と受け止めるというのはとても重いことのように思えました。
環境のせいや他人のせいだと思えるような事が現在 山ほどあるように思えるからです。

しかし、一方で 自分を顧みない心や
環境や他人を恨むような心では決して
天国に住めない

ということも 分かります。

沖縄で4000人の聴衆を前に話されたこの講演では 沖縄戦で戦われ肉親を亡くされた方々の先祖供養に対しても 多くのことを教えられた説法でした。

2023年の今現在
尖閣諸島を含め沖縄の離島近くには 中国の船が集まり 日々に領海が侵犯されています。
アメリカとの戦闘で 命を失った人の親族はアメリカに対して複雑な感情を持たれていますし、米軍基地出ていけという運動も盛んです。
ただ これには本土からの活動家が多く参加しており 北朝鮮や中国からの工作も関与している疑念も持たれています。

台湾に中国が侵攻するような事態が生じると同時に沖縄も危うくなるということは十分考えられます。
地政学的な位置として 要所となる場所になってくるからです。

巻き込まれた災難に対して、
自分の責任だと捉えるのは無理ではないのかと思う私の心もあります。

しかし 主は
沖縄での33年前の説法でこのように話されました
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(戦争で多くの人が亡くなったという)その事実を思い返してみても何ゆえの死であったのかが、おそらくは分からないでしょう。

何ゆえに死ななければならなかったのか、

何を護るために死んだのか、

死んでいったいどうなったのか、

これが分からないでいるでしょうし、亡くなった方々も、おそらくは納得されないままに亡くなられたのではないかと思います。

 けれども、最初に申し上げたように、戦争というものは政治の延長のなかにあります。そして、その政治をつくっているものは何であるか。動かしているのは指導者です。
しかし、その指導者を支持しているのはまた国民であります。

すなわち
「政治の責任というものはやはり国民から発生しているものであり、国民から発生したその政治が、その結果、失敗に終わったときには悲惨な結果に終わる」という因果関係を、戦争というものは示しているのであろうと思います。

 すなわち、「私たち一人ひとりは、個人としては自由に生きているけれども、一人ひとりで生きているのみならず、大勢の人が集まって、そして社会をつくり、国家をつくり、また世界をつくっている。
ゆえに、個人個人の上に成り立っているところの家屋にも相当するところの、

そうした組織、
大城な共同体の行為の結果、

それをも甘受せねばならん」ということを言ったのです。

個人が間違いを犯せば、その反作用が来るように、個人たちが集団でつくっているものが間違いを犯せば犯せば、その反作用もまた来る。それもまた享受せねばならんのが、政治的人間であり、公共性持って生きている人間であるところの、私たちの宿命でもあるわけなのです。
そして、その根本にあるのは一人ひとりの選択です。
「政治的主張・信条」の選択、
「経済的な考え方」の選択、

そして人間としていちばん大切なところの
「精神的なるものの考え方」
「宗教的なる信条」の選択、
こうしたものが、
こうした選択の積み重ねが、
実は大きなものをつくり出し、
その大きなものが走り出したときに、
すべての人の運命を、
そのなかに引きずり込むことになるようになっていくわけであります。

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そして、 さらに 自由と責任 地獄で苦しんでいる霊はどうすれば救われるのかといったお話が続きます。

日本に 仏陀が再誕し
仏陀を越えた久遠実成の仏陀であり
世界を救う救世主が降りたということを
日本の多くの人は認めていません。
日本の教育のなかで育った私たちは
宗教を知る機会もなくなってしまいました。

伝統的な宗教の多くも
新しい教えが出て来たときには
認めるのは難しいものだと思います。

しかし、
これからの日本にも
世界にも
仏の説かれた法が
一条の光となり
世を照らしていくことだけは
間違いないと思います。

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