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自転車の旅日記 ―四国路―

 今回は愛車ブリジストンRM5型での2度目の旅になる。有明埠頭からフェリーに乗り、船中一泊して徳島に渡り、四国を三泊で横断、三崎からフェリーで佐賀関に渡り、田舎まで帰る四泊五日の計画である。東鍼校は夏休み、4月14日から勤めたイナバ堂は7月30日で退職した。夏休み中、故郷で過ごす予定である。東鍼校別科Ⅱ部の同級生で看護婦の永沢渓子さんの世話で、9月から上板橋病院に勤めることが決まっている。
 
 昭和52年7月30日(土)一日目
午後16時30分、大喜荘の管理人のばあさんに挨拶して出発、17時50分有明埠頭着。大変な混雑であった。切符を買う段階で、満員了解済のゴム印を押された。結局寝たのは甲板の上、涼しいし、海の上で蚊はいないし、それほど悪い寝場所ではなかった。
 
 7月31日(日)二日目
船は40分遅れで13時30分に徳島に着いた。市街に入ってから京都の姉に電話を入れた。国道192号線を吉野川を遡るように進む。徳島線・江口駅には駅員はいなくて売店のおばちゃんが切符を売っていた。記念に買った。池田には18時頃着いたので、もう少し行くことにした。祖谷口を過ぎ、無人の小歩危駅の待合室に入ると、先客が一人いたが今日の宿にすることにした。 ―92㎞―
 
 8月1日(月)三日目
絵を描きに来たと言う彼に、朝飯用に買っておいたパンをあげて6時に別れた。大歩危駅で記念の切符を買った。この辺りから上りは少し急になり、吉野川も狭くなってきた。やがてダムになり、その先はいよいよ細くなり、根曳峠に出た。上り坂とは打って変わって下りは急であった。あっという間に下りきり、時間に余裕が出来たので、だいぶ寄り道になるが龍河洞へ行くことにした。
 着くと随分荷物を積んだサイクリング車の横に、中学生位の男の子が立っていた。聞くと大阪から一人で来たと言う。心細そうにしてたので洞窟を一緒に回った。出てから昼飯を奢ってやろうと、バッグの底板の下の金の入った封筒を探すがない。取られた。昨夜の男か。いや船の中では。それとも部屋に忘れて来たか。もしその金がないと言うことになれば残っている金は155円。奢ってやるどころではない。少年は私が通って来た道を逆走し、剣山に登ると言うので、途中まで一緒に行き別れたが、何もしてやれず不本意な別れになった。
 人のことを心配するどころではなかった。フェリーで佐賀関に渡る金もない。局留めで金を送ってもらおうか。そのための電話代もいる。いずれにせよこうなれば早く三崎まで行かなければ、もう景色どころではなくなった。 水で空腹を癒やしながら炎天下を走るのは辛かった。どう考えても金は盗まれたとは考えにくい。そうなると忘れたか。なんと大きな忘れものだろう。もう一度バッグを調べようと小道に自転車を乗り入れた。下着を出し、バスタオルを出すと、底板の端に茶封筒が少し見えた。もしやと底板をひっくり返すと、まぎれもなくお金の入った封筒が、底板に張り付いていた。力が入り大声を出しそうになった。そして人を疑ったことを恥じた。これでパン泥棒はしなくてすんだ。その後パンと牛乳を腹一杯食べた。
 土佐を過ぎる頃から上りになる。久礼坂と言うらしい。坂の途中から、松山から里の中村へ帰るところだと言う、私より年長の男性と一緒になった。久礼坂は急で、しかも長くほとんど押して歩いた。峠に出た時は19時を回っていた。彼は遅くなっても家まで帰ると言う。私が駅に泊まるつもりだと話すと、窪川駅まで一緒に行って、駅員に尋ねてくれた。ずっと開いてるからここで寝ればいいと言って帰っていった。しかし広く、明るくて落ち付かないので、外のバスの待合室に移動した。蚊はいなかったが暑くて眠れそうになかった。 ―156㎞―
 
 8月2日(火)四日目
女性が待合室の引き戸を開ける音で目覚めると6時だった。日記をつけ、はがきを書き、近くの食堂で朝食を摂り、出発した時は7時半を回っていた。中村までは大した坂もなく楽であった。中村・宿毛間はもっと楽な道で、宿毛の手前にちょっとした峠があったが、30㎞/h平均で走り、11時頃には着いた。これより四国の西岸を北上する。
 宿毛を出て少し行くと、左手に大きなきれいな川が流れていて、小学校中学年の女の子3人が堰で泳いでいた。私が降りていくと「昼寝しに来たんと違うんね」と声をかけてきた。ベッド用のサーフィンボートを出して空気を入れ始めると、「乗せて、乗せて」と言って寄って来た。結局昼前から2時頃まで占領されてしまった。水は澄み川底は玉石で、浅瀬にはハエやエノバエが群れをなし、15年も前の田舎の川のようであった。無邪気な子供達、美しい自然を見ていると、ここは住むに最適な地のように思えた。いつの日かもう一度来てみたいと思った。
 後になって、子供たちは昼に帰らなくて怒られたのではと心配した。 今北宇和島駅の待合室に居る。宇和島駅は大き過ぎたので、ここまで来た。何とか泊めてもらえそうである。 ―140㎞―
 
 8月3日(水)五日目
駅を5時30分に出発。しばらく行くと上りになり、トンネルを10も通ったろうか、この辺りで初めてツクツクホウシの鳴き声を聞いた。最も長い法華津トンネルで峠に達した。トンネルを抜けると靄の中に入り、それは上宇和まで続いた。この靄のお蔭で快適なツーリングが出来た。
 上宇和で国道56号線を離れ八幡浜までは15㎞程、そこから四国の終点、佐田岬半島の三崎までの60㎞が難所であった。前半は海は見えず山中の上りで、川も流れていた。道が南側の海岸に下ってからは、海岸線に沿ってくねくねと上り下りが続いた。正午前30分に三崎港に着いた。13時30分発のフェリーに乗り、14時40分に佐賀関に着いた。
 船を降りてから10号線に出るまでの信号の多いのに閉口した。四国が少なすぎたのだろうか。三崎までが県道197号で、10号線に出るまでが国道197号、くしくも同じ番号である。別府で食堂に入り冷麦で腹ごしらえをし、家に電話、19時半頃着くと伝えた。立石竜ヶ尾に18時20分に着いた。角の小店で500ccのネクターで喉を潤し、18時30分に最後の峠目指して出発、15分で峠に出た。
 高校生の時、同級生の増田君と自転車で別府にアイススケートに行き、帰りに通った時の記憶とは随分違っていた。一か所自転車を降りて押した所もあったが、実にたわいのない峠であった。家には19時5分に着いた。蕗のバス停からの道はいつの間にか舗装がされていた。 ―192㎞―

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