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自転車の旅 ―能登路―

 今回は愛車ブリジストンRM5型での3度目の旅になる。東京練馬区の住まいから高崎、長野を通り上越で日本海に出て、それからは海岸線に沿って西へ、能登半島をぐるっと回り、敦賀で日本海と別れ大津の姉の所で一泊、翌日松阪からフェリーで帰って来る八泊九日の旅である。台風10号は速度を速めながら北海道付近に達しそうなので一安心であるが、既に発生している11号の動きが気がかりである。
 
 昭和54年8月19日(日)一日目
4時半起床、地図、自転車オイル、カメラ、ラジオ、電気カミソリ、タオルケット、ビニールマット、衣類、その他を前のバックと荷台の登山用リュックに詰め、黄色のジョギング用シャツとパンツ、ブルーのジョギングシューズ、ブルーの野球帽といった出で立ちで、妻が作ってくれたおにぎり弁当を持って、腕時計の針が5時丁度を刺すのを待って、心地よい興奮の中、8日間の旅に出発した。国道17号を通って浦和、熊谷、高崎までは足が疲れはしたが順調であった。18号に入ると上りが多くなり、松井田を過ぎて碓井峠までの、うねりながら果てしなく続く急な上りに顎を出した。やっとの思いで坂を上りきると、眼前に軽井沢の街並みがあった。山中に突如出現した雑踏を通り抜け、木陰に寝そべって高校野球を聞いた。
 第一日目の宿はシーズンを終え閉じられた別荘の軒下、周りは白樺が混在する松林、心地よい落ち葉のベッドに横になり、耳元で鳴く虫の音と、夜半からの雨が落ち葉を濡らす音を聞きながら眠りに就いた。 ―160㎞―
 
 8月20日(月)二日目
雨の中を6時に出発。ポンチョ(雨具)を置いてきたのが悔やまれた。上田まで下ると雨は上がった。長野で善光寺に参拝。参道で売られていたネクタリンを初めて食べた。杏子と桃の掛け合わせだそうでたいそう美味かった。市街地を出ると国道の両側に、色付き始めたリンゴ畑が続いていた。直売所があったので喉の渇きを癒やそうと立ち寄ると、人の好さそうな女主人が居て、ジュースを飲みながら、東京から来たこと、能登へ行くことなど、しばし話し込んだ。発ちしな「頑張りなさいよ」と言ってリンゴを二つくれた。もぎたてらしく少し硬かったが、蜜が入っていてとても甘かった。柏原で、「これがまあついの楢か雪五尺」の石碑が建つ、小林一茶終焉の土蔵を見学。野尻湖を右に見ながら走ると、上越で国道8号に出た。それを西にしばらく行くと、碧々とした日本海がすぐ横に広がっていた。
今日の宿は海辺のコンクリートの上、前に船小屋が並び、その向こうは海である。星を仰ぎ、波の音を聞きながら眠りに就いた。 ―148㎞―
 
 8月21日(火)三日目
女性の話し声と船のエンジン音で目覚めた。波打ち際で土地の女性二人が海藻を拾っていた。寄せては引く波にタイミングをとりながら潮で顔を洗い、5時半に出発した。
 親不知海岸を通り、黒部川を渡り、魚津市まで来た時、パラついてた雨が土砂降りになった。その後も雨は間断なく降り続き、富山を過ぎ、高岡から国道160号を通って氷見に至ってもやむ気配はなかった。刻々と夕闇は迫り、体は冷え切り、野宿する適当な場所も見つからなかった。国道の脇に民宿を見つけ、今日はここに泊まることにした。断られないように、地下の駐車場で身なりを整えてから玄関に立った。応対に出た主人に、「びしょ濡れになったのですが泊めてもらえないでしょうか」と頼んだ。少し間を置いて、「夕食は?」と聞いたので、「まだです」と答えると、「もう時間が遅いから大したものは出来ないけど、有り合わせでよければ」と言われた。私は一もニもなく承諾した。風呂に入り、浴衣に着替えるとやっと人心地がついた。夕食を摂り、布団の上に横になると雲の上に居るようであった。喉が少し痛い。風邪を引いたようだ。今夜は民宿にしてよかった。テレビのニュースが「北陸地方に大雨洪水警報が出され、既に死者が出ている」と報じていた。 ―140㎞―
 
 8月22日(水)四日目
7時起床、外は雨、天気予報は「雨は峠を越したが、まだ降り続く」と言っていた。朝食を済ませ、民宿の奥さんが「自転車は送って、電車で帰るよう」勧めるのを制し、8時半雨中に乗り出した。気の重い出発であった。
 雨は降ったり止んだりを繰り返し、昼過ぎには上がった。能登半島東岸を七尾、穴水、能登と行き、珠洲から国道は山に入った。急勾配の大谷峠を青息吐息で上り詰めると、そこに峠の名はなく、一体のお地蔵様が御座った。 峠を一気に下り、木立の間から碧い海が見えた時、今までの苦労が報われる思いがした。東海岸が女性的なのに対し、西海岸は男性的で変化に富み、夕日を浴びてキラキラ輝く様は見てて飽きなかった。
 今日の宿は曾々木海岸の小さな入り江に架かる橋の下、橋脚の上である。寝支度をして横になり、一日がつつがなく終わろうとした時、事件が起きた。橋の上に車が止まり、懐中電灯を持った人が橋の向こう側から降りて来た。上にも人がいるようで話し声が聞こえた。「ここは俺の寝場所だ、早いとこ何処か行ってくれ」と思っていると、突然「ヒュー」と言う音がして赤い火が飛んだ。「花火か、花火をしに降りて来たのか」と思った。それから幾度か「ヒュー」と言う音とともに赤い火が飛んだ。体を起こしてその方角に目をやると、沖の方に点滅する赤い灯が見えた。「これは合図だ、陸と沖の船との合図だ」と思った。場所からして、朝鮮からの密航の手引きだと思った。また一つ懐中電灯の明かりが降りて来た。見つかってはまずいと思い、荷物を隅に寄せ、姿勢を低くして息を殺した。もしかしたら暴力団による麻薬の取引では、との思いが頭に浮かんだ。まずい事になった。音を立てないよう、這うようにして、海辺に積まれたテトラポットの中に隠れた。足元で満ち引きする波が軽やかな音を立てていた。
 時間が経つにつれ「そんな馬鹿な、何かの間違いでは」と言う気がしてきた。上に上がって確かめる決心をした。岸をよじ登り、欄干の陰に一度身を潜め、対向車のライトに浮かび上がった二台の車に誰も乗っていないのを確認してから、立ち上がって歩きながら海の方に目をやった。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」―そこには夜釣りの光景があった。電気ウキの赤い灯が「ヒュー」と音を立てて飛ぶのを見た。一人旅の心細さから警戒心が強まり、加えて疲れの為に思考力が鈍っていて起きた、滑稽な出来事であった。兎にも角にもこれで安心して眠りに就くことが出来る。釣りはまだまだ続いていた。 ―150㎞―
 

曾々木海岸


 8月23日(木)五日目
6時、連続四日雨の中の出発となった。輪島を過ぎ、門前町で雨に煙る総持寺祖院に参拝、9時半に雨は上がった。そして今までの雨が嘘のように空は青く晴れ渡り、強い日差しが照りつけた。羽咋の手前で、リュックの中の物を全部取出し日に干した。靴も脱いで素足になると、コンクリートは暑く焼けていて、一所に留まって居れず飛び跳ねて回った。津幡で国道8号に出た時、能登路は終わった。金沢で兼六園を見学、松任市で夕暮れを迎えた。今日の宿は国道脇の、今は使われてない大きな工場の軒先、三方は草むらで虫の音がしていた。中から仕事台を運び出し、ベッドにして寝た。乾いたタオルケットが心地よかった。 ―152㎞―
 
 8月24日(金)六日目
6時出発、丸岡で国道8号を離れ永平寺に向かう。とても、厳粛な堂内に入る服装ではないので門前から参拝した。福井で再び8号に戻る。武生を過ぎ、一山越すと眼前に敦賀湾が碧々と広がっていた。ここで日本海に別れを告げ、今日の宿疋田には4時半頃着いた。空模様がおかしくなってきたので、急ぎ適当な寝場所を探したが、見つからないうちに雨になった。ドライブインで夕食を摂り雨宿りをしていると、7時頃小降りになった。近くに新疋田駅があるので当たってみることにした。バス停に自転車旅行中らしき青年が居た。一瞥して通り過ぎると、「何処に泊まりますか?」と追っかけてきた。駅のことを話すと、彼も知ってたらしく、「二人なら心強い」と言って付いて来た。6畳ほどの待合室、事務室、それに宿直室からなる小さな駅で、二十代と四十代の二人の駅員が居た。彼はためらうことなく事務室に行き、年配の駅員に「雨の為野宿が出来ないこと」「今からの山越えは無理なこと」等を話し、待合室に泊めてもらえるよう頼んだ。私は彼に圧倒され横に立ってるだけだった。初めは警察に知られると怒られると言って首を縦に振らなかったが、彼の押しが効いて、運転免許証の住所・氏名を書き写すことで宿泊を許された。
 彼の名前は阿南、22才、田舎が同じ大分県(竹田)と聞いて驚いた。一か月もの間北海道を旅し、今日フェリーで敦賀に着いたと聞いて二度驚いた。北海道でも半月以上雨に降られ、ほとんど駅に泊めてもらったとのこと、駅員との交渉に慣れている訳だ。熊が出没する北海道では野宿は危険らしい。彼は大学受験に失敗、以後アルバイトで暮らしを立て、旅に出る前は「昼は運転手、夜はクラブでトランペットを吹いていた」と話してくれた。「来年はアフリカかアメリカを自転車で旅行したい」、その為に銭の稼げる大阪に出て来ると言っていた。
 ああ、私にもこういう時代があった。夢がどんどん膨らみ、それが全て可能に思え、目的の為ならどんな苦労でもする。
     夢と現実が未分化の時代
     エネルギーに満ち溢れた時代
     怖さを知らない時代
彼はまさに青春の真っただ中にいる。同じように野宿をしながら、自転車で旅をしてても、彼にとってそれは人生そのものであり、私にとってそれは人生の楽しみであるという点で、まったく異質のものであることに気付いた。まだまだ青春の中程にいるつもりの私であったが、この旅で意外なことを思い知らされた。私は堅田の姉の家、彼は奈良のおばさんの家、明日の晩は畳の上で寝れる。風呂にも入れる。そう思うと嬉しさが込み上げてきて、二人共腹の底からケタケタと笑った。 ―160㎞―
 

疋田駅


 8月25日(土)七日目
5時半に起きた。蚊の為よく眠れなかった。駅員に礼を述べ、小雨がぱらつく中を7時に出発した。「お先にどうぞ、私は後から行くから」と言うので、別々に行くことを望んでいるのかと思ったら、すぐ後ろからついて来た。一人旅をしてきた者同士が、一緒に旅をするのはどうも変な感じである。「一人の方が気楽でいい」と言う気持ち、「せっかく知り合えたのだから二人で」と言う気持ち、「一人旅をしたいのでは」と言う相手への思いやり等で、付いたり離れたりの旅になった。私のはスポーツ車で荷物が少ない。彼のはキャンピング車で荷物が多い。しかも福井と滋賀の県境、山中峠は結構急な上りで、上りになると彼は大きく遅れ、平坦になると、私がゆっくり行ったこともあるが、追いついて来た。途中一緒に軽く朝食を摂った。峠を越え、今津まで下って来た時、私のリヤタイヤがパンクした。私が「近くの自転車屋で修理してもらう」と言ったら、「もったいないよ」と言って、持っていた修理道具を取出し10分程で直してくれた。私が「堅田に着いたら一緒に飯を食おう、おごるから」と言うと、「パンク修理位で悪いよ」と彼は言った。
 朝食の時、彼は「一番安いのは・・・・」と言ってかけうどんを注文した。お金はもっと大事に使わなきゃと言われているように感じた。青春時代は貧乏である。その現実を素直な言葉で表現する彼に好感が持てた。「禍転じて福となる」である。このパンク事故で、私と彼の間に「堅田で飯を食う」という共通の目的が出来た。彼はこの先私の連れである。
 琵琶湖の水は澄んでいてきれいだった。飛び込んで泳いだらどんなに気持ちいいだろうと思った。今津から先は3年前に一度通って知っていた。40㎞の道をノンストップの2時間で走り、10時半に堅田に着いた。国道沿いに感じのいい和風レストランを見つけ入った。中の様子は大衆食堂と言った感じで、よく喋る六十過ぎの気の好さそうな女性が応対した。とりあえずのご馳走は何と言っても冷たい水、二人とも立て続けにコップで3杯飲み干した。鰻丼と味噌汁を頼んだ。「え、そんな高いの」と彼が言った。「ご飯食べるの久しぶりだなー、いつもパンばかりだから、何時以来かなー」と嬉しそうだった。
 私もそうだった。51年に九州まで帰った時も、52年に四国を旅した時も、ほとんどパンばかり食べた。パンなら走りながらでも食べられたし、少しの金で腹一杯食べることが出来た。
 「気をつけて」「頑張って」と声を掛け合って11時半に別れた。彼のこの後に関心はあったが、どちらからも住所を聞くことはなかった。彼のお蔭で、旅は一段と味わい深い、思い出深いものとなった。好い出会いであった。
 姉の家に着くと風呂が沸かしてあった。四日分の汚れを落とすと生き返ったようであった。台風11号のことが気になったのでフジフェリーに電話したところ、船は予定通り出港するとのことであった。今日は布団の上で寝れる。阿南君も同じ思いでいる事だろう。
 ―68㎞―
 
 8月26日(日)八日目
目覚めると9時近く、よく寝たものである。気になる天気予報は「曇り所により一時雨」、台風はまだ九州の西方にあった。松坂湾までの距離は100キロ、10時に朝食、11時丁度に姉夫婦、甥二人に見送られて出発した。琵琶湖大橋を渡り、国道8号、1号を通って、今日最大の難所鈴鹿峠を越え、関町から伊勢別街道を通って津に抜け、松坂湾には4時半に着いた。港には既に我々が乗る船があった。他にはフジフェリーの小さな事務所兼待合室がぽつんとあるだけで、何とも寂しい佇まいであった。5時に乗船、定刻の6時に出航、長かった旅も終わり、天候もまあまあなので、定刻通り明朝5時半には東京に着くだろう。 ―98㎞―



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